ちゃん、一緒にボーダー行こ」


 犬飼のお誘いに二つ返事で了承し、スクールバッグを肩にかけ教室を出る。出たところで、どうせならと同じ目的の誰かを軽く探したものの、一人も見つからず、当初の予定通り犬飼と二人仲良く肩を並べて向かうことにした。ちなみに蔵内くんは生徒会の集まりがあってボーダーに顔を出すこと自体叶わず、神田くんは早退して今も任務に当たっていて、荒船くんは急用のため犬飼にピンチヒッターを頼んだ張本人だ。攻撃手と銃手では隊構成が変わるから、他のチームメイトとの連携が難しくなってしまうのではと思ったけれど、今日は元々混成部隊なので心配はなさそうだ。むしろ中距離を受け持つ隊員がいなかったのでちょうどよかったかもしれない、と頭の中で編成を組み直す。何を隠そう、混成部隊のオペレーターがわたしなのだ。


ちゃんと組むのいつぶりだろうね。年明けて初めてじゃない?」
「ね。氷見ちゃんと比べないでね」
「比べないって。ていうかちゃんのオペレートもすきだよ、おれ」
「えっ、あ、ありがとう」


 ストレートな好感は純粋に嬉しいのに、うまく喜びを表現できなくて挙動不審なリアクションを取ってしまう。ぎこちなく笑って進行方向のアスファルトへ目線を落とすと、隣の犬飼が屈むように覗き込んでくる。


「照れた?」
「褒められ慣れてないもので……」
「王子によく褒められてるじゃん」


 飲み終わったアルミ缶をごみ箱に捨てるみたいな台詞に、また反応に困ってしまう。事実ではある。あるけれど、残念ながらそれとこれとは別なんだよ。


「一彰は何でも褒めるもの」
「でも喜んでるでしょ」
「……真に受ける馬鹿なので」
「ひねくれないでよ。そういうとこかわいくないよね」
「それはどうも」


 軽く笑い飛ばす犬飼に口を尖らせる。嫌われてさえいなければ犬飼にどう思われようが構わないから、たとえかわいくないなんて認識されてたって気にならない。犬飼もわたしの逆鱗に触れたなんて勘違いはしてないらしく、さして気にした様子もなく進行方向へ視線を戻していた。
 六月は放課後のこの時間でも日差しが強い。アスファルトからの反射熱で余計暑く感じる。日焼けしたくないなら日焼け止めを塗るべきなんだろうけれど、面倒臭がりのわたしが登下校のためだけに塗ったことは一度もなかった。


「犬飼って夏生まれだっけ?」
「ううん。五月」
「あ、そうなんだ。おめでとうございました」
「ありがと」


 もう終わってた。薄情だったと反省しつつ、軽くお辞儀をして簡素な祝辞を述べると犬飼も謝辞を返す。五月と言えば、鳩原さんがボーダーを除籍になったのも先月だ。彼女の処分だけでも突然だったのに、二宮隊がB級に降格したのもあって犬飼が大変忙しそうにしていたのを覚えている。鳩原さんと同じ学校の一彰が彼女について何かを言うことはないけれど、ときどき、今頃どうしてるんだろうと心配に思うことがある。犬飼に聞こうにも、ボーダーを離れてから会っていないらしい。それにあまり首を突っ込むのもよくないだろうと後ろ向きの判断が、この件に関しては口を閉ざさせていた。
 変な間ができてしまったので、取り繕うように「犬飼は夏生まれのイメージがある」なんて的外れなことを言ってみたら、彼は「そう?」とへらりと笑った。そういえば去年、誕生日に紙パックのジュースをおごってもらった気がする。本当に薄情者だ。今度お返しも兼ねてお祝いしよう、と密かに決心し照りつける歩道を踏みしめた。




◇◇




 一彰とは、本部に到着してお互いの作戦室へ向かう途中で出くわした。ちょうどここで二人の分かれ道というところで、片方の通路から彼がやってきたのだ。それが一彰の作戦室の方向だったので、なんてことはない、自分の部屋から外に出てきただけのことだ。歩いてくる彼はわたしたちに気付くなり、模範的に手と口角を上げる。


「やあ」
「やっほー」


 誰ともなく通路の右端に寄って立ち止まる。幼なじみ、同じクラス、同い年の男子というそれぞれの関係性のおかげでこの顔ぶれは見慣れたものだ。特に一彰と犬飼は今月から始まったB級ランク戦で何度か当たっているから、顔を合わせる機会も増えているらしい。元々人当たりのいい二人の仲は良好で、わたしと一彰の約束事が知られてからも、面白がられこそすれ、悪い意味で関係が変わることはなかった。
 まさに今週末の試合でも二人の隊が当たるらしく、気付くと腹の探り合いが始まっていた。どうやらマップ選択権が一彰の隊にあるので、犬飼は情報を引き出したいらしい。どちらも食わせ者だから、難しいだろうなあと沈黙を守る部外者は思う。


「……ま、いっか。土曜はよろしくね」
「こちらこそ」


 今回は犬飼が引き下がったらしい。少なくともわたしには、一彰がどのマップを選択するのか、会話の中から推察することはできなかった。「ちゃん、あとでね」そう言って二宮隊の作戦室へ踵を返した犬飼に、うんと頷いて軽く手を振る。彼が完全に背を向けたところで一彰を見上げると、同じタイミングで犬飼から視線を逸らしたらしい目と合った。
 形のいい瞳を丸くして、わたしを見下ろす。その表情は、呆気にとられているようで、同時に責めているようにも見えた。予想外の相貌に、思わず顔を強張らせた途端、不穏な空気はあっという間に消え失せたけれど。


「スミくんと何かあるのかい?」
「うん。混成部隊の任務」
「ああ」


 すぐさま納得したと言わんばかりの相槌を打った一彰に、先ほどの面影はうかがえない。錯覚だったのかな。わたしの目が勝手に、一彰が面白くないと思っているかのように見せたのかもしれない。
 わたしは一彰に、嫉妬してほしかったのか。一瞬見えた表情を都合よく解釈するとそうなる。犬飼とわたしの間にやましいことはひとつもないけれど、一彰が邪推していたらいいなと思ったのかも。随分とお気楽な脳みそだこと。「のことを一番詳しいのがスミくんみたいで悔しいな」一昨日の台詞が、思いのほかわたしを有頂天にさせていたらしい。


「やきもち?」


 つい、大胆なことを言ってみる。わざとらしく肩をすくめる。冗談だ。そんなことないってわかってるけど、ちょっと言ってみたかった。


「いや?」


 だから、一彰の否定なんて予想通りだ。わかりきっていたことで、うまく息を吸えなくなるなんて、とても愚かなことだ。


「だよね」
「うん。妬いてるように見えた?」


 ううん、と首を横に振る。貫き通す気概なんてない。急速に悪化した居心地に、首にツルのような細い何かが絡みつく錯覚を覚える。一彰の顔を見ることができない。視界は基地の白い床でいっぱいだった。連絡通路に入ってから、夏の蒸し暑い体感温度とさよならをして涼しい室温に包まれていた身体は、汗が冷えてしまったのか、今更肌寒く感じた。


「なんだ、びっくりした」


 聞こえた声は至っていつも通りで、波風はひとつも立っていないことを察する。犬飼に対して悔しいと述べた一彰は、しかし今、そんな風に感じている様子は微塵も見受けられない。仕事だからと割り切ってるんだろうか。仮にそうだとしても、メリハリがありすぎる。まるで、最初から何とも思っていませんと言われたほうが、よっぽど、そうでしょうねと納得できる。
 心は完全に失速し、もう何も言う気になれなくなる。肩をすくめ、曖昧に笑ってごまかすことで精一杯だ。


「あはは、ごめん」


 よくよく思い返すと、悔しいと言ったあの台詞だって、さらっと言われただけで感情は少しも乗っていなかった。わたし一人がいい気になっていただけで、一彰に大した意図はなかったのだ。虚しい、馬鹿みたいだ。

 二年前の十六歳の誕生日、すきだよと告げた一彰に渡そうとした心は、結局自分で抱え込んだままだ。だって一彰は口で言うほどわたしにこだわっていない。嫉妬が恋の始まりだというのなら、一彰の中では何も、心を動かすことなどひとつも始まっていないことになる。一彰はわたしじゃないと駄目なんだって、そんな素敵なこと、感じたこと一度もない。

 漠然とした不安に飲み込まれている。二人の肝心な部分が曖昧なまま、約束だけがこの目にはっきりと見える。




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