「それってまんじゅうこわいみたいな?」


 真正面に座るクラスメイトの口からぺろっと出てきた比喩表現に、なんだっけ、と知識をたぐり寄せ、それが有名な落語の演目だと思い出してようやく「違う!」と否定できた。即答できなかったことが恥ずかしくて、「あれ、そうなの」と笑顔でのたまう犬飼に八つ当たりのように口を尖らせるも、どうせのれんに腕押しで効果はない。

 前の席でイスに対して横向きに座る犬飼のことは、ボーダーに入る前の一年の頃から知っていたものの、直接関わる機会はなく、去年初めて隣の席になるまで一言も話したことはなかった。なんとなく近寄りがたいとすら思っていた気がするけれど、今となっては何を気取ったことを考えていたんだか、と記憶を遠くに追いやっている。むしろ本人の圧倒的なコミュニケーション能力に引っ張られてあっという間に気の置けない仲になったくらいなので、犬飼は全人類との縁を持って生まれてきたんじゃないかと密かに勘繰ってるほどだ。幼なじみの一彰とはまた違った気安さがあるので、好んで一緒にいる友人の一人でもある。たぶん、ある程度仲のいい人を集めて、この中から一人選べって言われたら、じゃあ犬飼、って答える。でもそれは、他の人も同じだろう。
 犬飼とは先週の席替えで前後の席になったばかりだ。席が近いと遠いときよりたくさん話せるから、面白い話だけでなく、つい、据わりの悪い話もしてしまう。そういうとき、犬飼は決まって意地の悪いことを言う。悪気はないと思うのだけど、どうにもむかついてしまうのはしょうがない。携帯を片手に煽るような笑顔を引っ込めたと思えば、のん気にあははと笑う、彼を的確に唸らせる語彙は自分の辞書にないので、反撃といえばひたすら睨みつけるくらいだ。


「ほんとに違うんだ。婚約までしてるのに」


 けれどそれすら糠に釘で、今度はぎくっと身体が強張ってしまう。上がった肩を、すとんと落とすことができなくなる。もう何度もネタにされてるのに、されるたび平静を努めるのが困難になってしまう話題だった。だって考えるほど、ぬかるみに足を取られて動けなくなってしまう。
 犬飼には、一彰とわたしが昔に結婚の約束をしていて、それが今も有効であることが知られている。春先にボーダーのラウンジで一彰とその話をしていたとき、通りがかった犬飼に運悪く聞かれてしまったのだ。「それほんと?」と声をかけられたときの冷や汗は尋常じゃなかった。一方、向かいに座る一彰はどこ吹く風と、「うん。聞こえた?」なんて事もなげに答えていたけれど。
 以前から、犬飼との会話に一彰の名前が挙がることは多かったけれど、なんとなく、幼なじみと知っているからだろうと深く考えていなかった。それが、以来、彼の名前が出るたび半強制的に結婚の話題に転じるようになってしまった。一彰の話になると犬飼は、まるで前世からずっと意地の悪い人だったかのような物言いをする。それがいつも得意じゃないのだけれど、据わりが悪いと同時に話を聞いてほしくもあるから、はっきり嫌とも言えなくて、なんだかいじめられて喜んでる人みたいな気分になってしまう。

 はあ、と溜め息をつくと、ようやく肩を落とすことができた。結局のところ、今まで誰にも言えずにいた分、事情を知られたのをいいことに色々話しているから、犬飼の存在は大変にありがたい。わたしのことも一彰のことも知ってるし、口の硬さもそれなりだと思う。なにより、彼の位置取る距離感はちょうどよくて、とても話しやすい。これはモテて当然だと、校内での人気に深々と納得するほどだった。


「あれ、王子の誕生日っていつだっけ」
「一月だよ」
「そっか、まだまだ先か」
「なんで?」
「十八になったら結婚できちゃうじゃん。怖いとか言ってる場合じゃないと思って」
「あっ」


 心臓が低く脈を打つ。それが、どくどくと不気味に全身へ広がっていく。緊張と困惑がマーブル模様に混ざっていく想像をして、雲行きはどんどん怪しくなる。緊急策として目線を机に落とすくらいしかできず、でも落としたら落としたで、緩やかに渦を巻く木目に苛まれてしまう。


「まさか結婚できる歳になったからってすぐしようって言うわけないと思うけどさ。……ないよね?」
「わかんない」


 よく考えずに返してしまう。想像がつかない。実際、一彰が前向きな気持ちでわたしとの約束を継続させているとは思えないから、すぐ行動に移すとも考えづらい。けれど、約束が有効である以上、果たせる状況になればすぐにでも、という可能性があり得なくもない、のかもしれない。わからない、一彰がどういうつもりでいるのか、まるでわからないのだ。

 一番困るのが、もしその場面に直面したとき、自分は果たしてどうするべきなのか、未だに答えが出ていないことだ。


「怖いって言うわりに断る気ないの面白いよね」


 わたしの顔を覗き込むように首を傾げる犬飼。形だけでも対峙するように、目線を上げる。ゆるやかに弧を描く双眸は相手を挑発しているような、少なくともこれから親切をしようとしている人には見えなかった。


「本当に嫌だって思ってるなら、なかったことにしてって言えばいいのに」
「そんなこと言えないよ」
「ほんと変な口約束」


 黒板の上の壁掛け時計は昼休みの残り時間を告げている。あと十分、次は古典だから移動はないし、教科書も辞書も便覧も全部机に入っている。お手洗いにも行ってしまった。というか、トイレからの帰りに、昼登校してきた犬飼と会ったのだ。防衛任務を終えた彼をお疲れ様と労ったら、あいさつと合わせて「昨日王子と会えた?」と聞かれて、今に至る。長話をするくらい、クラスで一番、もっと、高校で一番親しい男友達。ありがたい存在なことには違いない。


ちゃんは結婚すること自体には乗り気なんだもんね」


 ただ、触れてほしくない事実も構わず突きつけてくる気質はわたしの心に優しくなく、それはどこか、一彰を彷彿とさせた。


「だからさ、やっぱちゃん、王子のことすきなんでしょ」
「そんな」


 言い聞かせるような、あやすような声に、反射的に否定の言葉が口をつく。全部は言わずに堪え、一度視線を落とす。机の木目が見える。ぐるぐると渦巻く。逆巻きにしたって虚しいだけだ、きっとほどけやしない。一彰のことは。


「すきじゃない……」




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