「それで破談にしちゃったの」


 蔵内の隣に座るスミくんが携帯を片手に問う。正しくイスに座っているにもかかわらず随分とリラックスした雰囲気を醸し出す彼を一瞥し、「うん」迷うことなく頷く。
 チェス盤に目を落とすと、ちょうど蔵内の手が白のビショップへと伸びていた。予想通りの一手に内心よしと頷く。夏休み最終日の対局は白星で納めたい。雑談の最中でも気を緩めるつもりは毛頭ない。それは蔵内も同様ではあったけれど。

 昼のB級ランク戦のあと、模擬戦をしに行っていた蔵内がスミくんを連れて戻ってきたのには少し驚かされた。ブースで偶然会ったという彼はこれからチェスをすることを承知の上でついてきたらしく、そのわりにぼくらの対局自体に興味があるわけではなさそうだった。時折携帯を弄りながら世間話を振ってくるのがその証拠だ。
 の名前を口にしたときこそそれが目的かと邪推したものの、そういうつもりでもなく、本当に暇つぶしとしてここに来たらしい。結果として、彼の興味関心を惹く話題を提供してしまったのだけれど。おかげで蔵内にまで結婚の約束の話が知れてしまった。初耳だったはずの彼はしかし、わずかに驚いた様子を見せたあとは、深く納得したように「そうなのか」と声にしただけで、どういった感想を持ったのかうかがい知ることはできなかった。


「大丈夫なの、王子?悲しくなっちゃうんじゃない」
「うーん、でも悪意なく約束を破っただけでが責任を感じるところなんて見たくないからな」


 次の手を考えるそぶりで顎に手を当て、の罪悪感と絶望をはらんだ表情を思い出す。たった一度、寝坊をしただけであの様子だ。自分が今までどれだけに負担を強いていたのか、ようやく身に沁みた。ぼくは何をしていたんだか。あんなに萎縮させるなんて。

 お互いを縛る約束があれば大手を振ってそばにいられると思っていた。だから忘れられないよう、忘れることが罪深いことだと思う子にした。でも、そういう認識があったからといって、約束が必ずしも守られるとは限らない。やむを得ず破ってしまうこともある。そのときが必要以上の罪悪感に苛まれるのは、ぼくの望んだところではない。


「だから、これからはの結婚相手に選んでもらえるよう頑張ろうと思うよ」
「いいのか?みっともなくて虚しいんじゃないのか」
「え?なにそれ」


 蔵内の台詞にスミくんが反応を示したけれど、なんとなく今は教えたくなかったので笑みを作るだけに留める。蔵内も自分から話そうとはしなかった。それに、ぼくから話さずとも、スミくんなら察せるんじゃないかな、と買いかぶってみる。


「うん。でも待ってるだけじゃ駄目みたいだから」


 愛にはいろんな形がある。相手の幸せを願うだけが愛じゃない。ぼくにとって、はそういう人じゃない。ぼくが隣にいなければ意味がない。が幸せになるなら、ぼくといることが前提条件であってほしい。
 だから、に負担のかからないよう二度と約束をしない、とは誓えない。身を引いたり、離れることだってもちろんできない。ただ、それがなくたってぼくらはそばにいるだろうとも思う。

「……今まで待ってたの?ばりばり牽制されたんだけど、おれ」「本人はそういうつもりらしい」隠す気のない二人の内緒話は聞こえていたけれど、気に障りはしなかった。白のルークを取り、そこへ自分のクイーンを動かす。蔵内も少し悩んだあと、動かす。すかさず動かす。勝ち筋は見えた。もうすぐ終わりそうだ。


「それに今は、そこまでみっともなくないからね」


 自然と口角は上がっていた。




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