「ごめん……!」


 口をついた謝罪の声が掠れていた。頭はもう、起き抜けと思えないほど冴えていて、冴えすぎて気味が悪いほどだった。血の気が引いたように指先や背中が冷たい。すべてを後悔するような罪悪感に駆られ、消えたいと切望するも、入り口で立ち尽くす一彰を無視することもできず、否でも現実を突きつけられる。
 ゆっくりと、一彰の視線が床に落ちる。表情は滅多に見ることのない、動揺を滲ませ、目を丸くしたまま、愕然ともとれる姿だった。


「いや、ごめん。勝手に入って。……下にいるから、ゆっくり降りておいで」


 普段より明らかに歯切れの悪い言葉を残し、一歩後ずさる。「ほ、ほんとにごめん……」二度目の謝罪が聞こえるか聞こえないかのタイミングで、ドアが閉じられた。間もなく、階段を降りていく足音が聞こえる。一彰の気配が遠ざかる。
 誰もいなくなった部屋で、けれどわたしの浮いた動悸がおさまることはなかった。むしろ一人になったことで事態の深刻さと向き合えてしまう。思わずタオルケットを引っ張り上げ、顔を埋める。
 やばい、やばい、約束破ってしまった。破るつもりなんてなかったのに、破ってしまった。なんで目覚ましかけてなかったのわたし、馬鹿、本当に馬鹿。よりによって一彰との約束だよ。一番破っちゃいけない。一彰すごくショック受けてた。約束守らないの絶対嫌なのに、今まで信用してもらってたのに踏みにじってしまった。最悪すぎる。もう駄目だ。

 ……きらわれる。

 カタカタと指先が震える。真夏なのに真冬みたいに寒い。早く動き出さなきゃ、思ってベッドから降り、一歩踏み出そうとしたら足がもつれて床に勢いよく膝をついてしまった。手と膝が痛い。全身が冷たくて、大きな氷を飲み込んだみたいだ。早く、支度しなきゃ。支度、一彰が待ってる、早く、したく、支度って、何をしたらいいんだっけ。




◇◇




 着替えて、髪の毛を梳かして、顔を洗って、歯を磨く。いつもとまったく違う身支度の順番に違和感を覚えて仕方なかったけれど、思いついたものから手当たり次第やるしかなかった。急いだつもりでも、ようやく人前に出られる身なりに繕えた頃には、とうに十時を回っていた。
 尻込みする気持ちがなかったわけではないけれど、ともかくこれ以上待たせていい理由は何ひとつないので、ほとんど考えることなく急き立てられるままリビングのドアを開けた。開けた瞬間、室内の冷たさに気付く。エアコンが効いているのだ。それに目を遣るより先に、ダイニングテーブルに座る彼に向く。


「一彰ほんとうにごめん……!」


 勢いよく頭を下げる。こんなので信頼を取り戻せるとは思ってないけれど、寝坊したことに関して謝罪以外に述べられる言葉がひとつもなかった。完全にわたしが悪くて、わたし以外誰も悪くない。もっともな言い訳が存在するはずがない。


「そんなに待ってないよ。のお母さん、朝食作っていったから食べな」
「お、おなか空いてない」
「そのうち空くよ。勉強に集中できなくなると困るだろう」


 本当にお腹は減っていなかったし、むしろ食べると気持ち悪くなりそうだったけれど、反抗できる立場ではないため言うことを聞いた。台所にラップをかけたワンプレートのそれを見つけて運ぶ。四人用のテーブルに、迷ったけれどいつもと同じく一彰の正面に座った。さりげなくうかがうと、一彰の前には問題集とノートが広げられていて、勉強会を始める準備は万全だった。待っている間も少し進めていたかもしれない。それくらいしか時間を潰す方法がないんだから当然だ。脇に置いたアイスティーが減っていないのを見て、心臓と喉元がずきずきと痛む。
 お母さんも娘が寝坊したことを重々承知しているためか、朝食は少なめだったのが救いだった。ハムエッグとバターロールだけをなんとか口に押し込み、また歯磨きをして、自分が勉強の準備をしていないことに気付いて二階に取りに戻る。完全に形が整う頃には、約束の時間から三十分が経過していた。


「待たせて本当にごめん……」
「大丈夫だよ」


 一彰の気遣いに恐縮してしまい身体が縮こまる。一彰はわたしがバタバタしている間、ゆっくりで大丈夫だよと何度も言葉をかけてくれた。正当な理由もなく約束を破ったのはわたしなのに、信じられないくらい優しかったのだ。あまりの申し訳なさで今朝からずっと具合が悪い。
 しかも一彰はそれ以上責めるような言葉を言うこともなく、シャーペンを取って勉強を始めようとした。えっ、と立場も忘れて思わず口を開いてしまう。一瞬ためらう。でも、これをなあなあにしたら、わたしきっと、明日からどんな顔をしたらいいのか、またわからなくなってしまう。


「か、かずあき、怒んないの……約束破ったのに……」
「怒ってないよ」


 そう、わたしをまっすぐ見つめ返した一彰は、一呼吸置いて目を逸らした。さっきと同じように、視線を落とす。


「自分でも驚いたんだ。がぼくとの約束を破るかもしれないってことを、今まで考えたことがなかったから」
「ごめ……」
「たくさん謝ってくれたから大丈夫だよ。ぼくこそごめん。……がそんな、怯える必要はないんだ」


 目を伏せたまま、一彰は静かに微笑んだ。それから、何かに気がついたように、ゆっくりと見開く。「うん……そうだ。ぼくは何を……」一彰が何と言うのか、本当に怖くて、俯いてしまう。結局、続きが紡がれることはなかったけれど。
 一彰とした約束ひとつたりとも、破るつもりなんてなかった。全部守るつもりだった。破るかもしれないなんて可能性を考えさせたくなかった。そう言いたくても、どの口が言えるだろう。今度は口だけの奴だと思われてしまう。
 どうしよう、本当に嫌われる。何か言わなきゃいけないのに、一度約束を破った自分が何を取り繕えるだろう。それに、どんなに気をつけても、この先一生約束を破らないなんて、きっと誓えない。


「今までごめん」


 謝罪は一彰の声だった。弾かれたように顔を上げる。どうして一彰が何度も謝るのか、「今まで」なんて言うのか、さっぱりわからなかった。眉尻を下げて、遣る瀬なさそうに口角をほんの少し上げて微笑む。それは、足元ががらがらと崩れていく感覚だった。そんな顔、わたし、させたくなかった。


は、ぼくとの約束を無理に守ろうとしなくていいんだよ」
「……それ、」
「うん。だから大丈夫」


 気付けば一彰の表情は穏やかだった。湖のように静かな笑みのまま、明確な意識を持ってわたしに伝える。言葉の強さに、明言はしなかったけれど、何を言いたいのか、見事にわかってしまった。

 その瞬間、わたしの心は突然ぽっかりと穴が空いたみたいに空虚になる。日頃目の前の男の人をどう思っていたのか、思い出せなくなる。間違いなくこの人に対して色々な感情を持っていたはずなのに、空想の話だったんじゃないか、夢でも見ていたんじゃないかと思わせる。そう、現実味がない。
 二人の間の無音がどこまでも広がっていく。わたしたちの、一番大切な約束が白紙になった瞬間だった。




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