「かずあきこわい」


 ぼくのすきな子はそう言って、度々ぼくを遠ざける。


 頭上のモニターに映る訓練生たちの模擬戦を、特に感慨もなく見上げていた。今シーズン最終試合の作戦を練ろうと今朝からボーダーに来ていたものの、話し合いが数時間で終わり手持ち無沙汰になってしまったため、仕方なく暇つぶしに個人戦ブースに立ち寄ってみたのだけれど、あいにく模擬戦の気分にもなれずソファに座り観戦していた。ざっと見ても、興味を惹く新人はいなかったな。ちょうどいい人の気配と雑音のおかげで考え事に耽ってしまった。
 そろそろ帰ろうか、と組んでいた足を解く。左足が床についたタイミングで、背後から名前を呼ばれた。


「あっ、かずあき」


 振り返る前から誰かはわかっていた。思った通り、ソファ越しに歩み寄ると目が合う。オペレーターの制服を身につけているせいで周りからの視線を集める彼女は、少し居心地の悪そうにぎこちない笑顔を浮かべていた。私服ならそうはならないのに、と思いながらあいさつを交わす。


「うちのメンバー見なかった?探しに来たんだけど……」
「彼女ならさっき出て行ったよ」


 三分くらい前のことだろうか。ちらほら見かけた正隊員の中にのチームメイトもいたけれど、例に漏れず模擬戦を申し込む気分ではなかったため声をかけることはしなかった。個室から出るなり、換装体のまま小走りでここを去って行った姿を思い出す。
 空振りしたことに、なんだ、と肩を落とした彼女に作戦会議でもするのかと問うと、そうじゃないと首を振られた。なんでもチームメイトに来客があったらしく、この時間に約束をしていたというので慌てて探しに来たのだそうだ。


「入れ違いになっちゃったんならいいや」
は、このあと用事は?」
「ないよ」
「じゃあ座って、少し話さない?」
「うん」


 頷き、一人分空いていた左隣に座る。前もこんなことがあったなと回想しながら彼女の横顔を覗き込む。前は、ぼくがを探してここに来た。ボーダーの基地内で普段彼女が行く場所は限られていて、ゼロではない可能性の中、もっとも低いのがここだった。もうここに来る用はほとんどないにもかかわらず、訓練生時代の名残か、が気まぐれに観戦に立ち寄っていることを、スミくん、いや彼に限らず、他の人はまだ知らないんだろうか。
 知らないでいてくれるといい。これ以上を理解しないでほしい。膿んだような胸の痛みに、太ももの上で軽く握っていた指先がわずかに動く。


「一彰、戦ったの?」
「いや。見ていただけだよ」
「そっか。見てるだけでも面白いよね」


 はにかみ、先ほどのぼく同様にモニターを見上げる。数分前の心ここに在らずだった自分を思い出し、同意する資格はないなと閉口する。改めて見上げても、やはり目を惹く映像はない。にはどう見えているのだろう。想像しようとしても、二年前のことが脳裏に浮かんで消えてくれないから、本音でははここに来てほしくなかった。記録を見返したことは一度だってないのに、いつだって鮮明に思い出せてしまう。

 と最初で最後の模擬戦をした日のことは忘れられない。五本勝負だと言い、仮想空間の市街地で戦った。入隊ひと月らしいぎこちない動きは捉えるのにたやすく、単純にまだまだ弱いというのが第一印象だった。ただ、との手合わせは彼女の入隊決定以来長らく楽しみにしていたのもあり、戦闘員として同じ孤月を振るうことに高揚感を覚えていた。
 違和感に気付いたのは三本目だった。の反撃がどうにも鈍い。及び腰なのは経験差のせいかと思っても、それにしたって不自然なほどだ。片足を落として尻餅をついた彼女は、見下ろすぼくに対し焦りを見せても受け太刀の姿勢で構えるだけで、それを振るおうとしなかった。
 四本目で違和感は確信に変わり、同時に彼女自身が抱える重大な問題を理解する。

 は人を攻撃できない。

 そういった気質の人がいることは知っていた。身近な同学年にもいた。しかし、が「そう」かもしれないとは、一度も考えたことがなかった。

 いいや、違う。ぼくはもっと深刻な事実に、目の前を塞がれたのだ。

 五本目、これが最後になるだろうと、彼女の心臓を突き刺した。怒りや落胆ゆえではない。ぼくは、と戦えて楽しいと感じていた。手強い敵じゃない、知恵を絞らないと勝てない相手でもない。ただ、だったから。と何かをするのはいつも心が躍るから。
 でもは違った。この手合わせを、彼女はおそらく少しも楽しいと感じていなかった。一戦目、二戦目と、どんどん表情が強張っていっていた。そう、思い返せば一度も笑っていなかった。
 楽しんでいたのはぼくだけだった。その事実を突きつけられた瞬間、腹の底から堪え難いほどの羞恥が湧き上がった。溶岩がどろっと溢れ出すような感覚に襲われ思わず口を押さえる。吐き出したいほど気味の悪い動悸。熱い、気持ちが悪い。個室のマットに腰かけたまま、しばらく息を止めていた。心臓の音が身体中に響き渡る。





「かずあき?」


 二の腕に何かが触れる感触に我に返った。反射的に左を見遣ると、が腕に手を添え、ぼくを覗き込んでいた。不思議そうに見つめる目と合い、短く息を吐く。急速に、心臓が落ち着きを取り戻していく。


「何でもないよ」
「そ、そう?ぼーっとしてたから、疲れてるのかなと思って」
「そうかもしれないね」


 口角を上げ、背もたれに背中を預ける。前かがみだったが追いかけるように首をひねり、「無理しないでね」と困ったように笑った。うん、と力を抜き、目を伏せる。
 がどうしてぼくを怖いと言うのか、実のところわかっていない。注意や警戒をするよう指摘することはあれ、怖がらせるつもりで何かを言ったことはないから、がぼくに対して当惑し、拒絶するたび、どうして傷ついた顔をするのか理解できなかった。ただ、相手の意図しない部分で傷つく痛みには身に覚えがあるので、も同じなんだろうと思う。突き放され、着実に傷ついていく心は、それでも彼女を諦めるという決断に踏み切ることはなかったけれど。左側に首を傾け、彼女の気配に身を委ねる。


は、明日空いてる?」
「うん」
「一緒に勉強しない?夏休み明けの小テストの勉強をするって言ってたよね」
「あ、うん。そうだった」


「じゃあ明日の十時、の家に行くね」こうして、何百回とした約束をまたひとつ積み上げる。忘れられないように。は約束を必ず守ってくれるから。ぼくがそういう子にした。
 だからスミくんは手強いライバルになり得ない。今のの心がどうであれ、しかるべきときには必ず応えてくれる。応えてくれるなら、いいと思っていた。

 ふと落としたソファの座面、ぼくとの間に、二人の手が並んで見えた。それを、そっと上から被せる。自分のより一回り小さい手は簡単に覆えてしまった。換装体同士、手袋越しの鈍い感触が伝わる。うっすらと体温が感じ取れる程度だ。それでも、自分の心が満たされるのを、確かに感じていた。

 とはいずれ、生涯を誓うことができる。だから、あとから出てきた人間のために嫉妬や焦りでみっともない真似を晒す必要はない。の目に映る自分は常に、理想的でありたい。
 けれどぼくらには約束された将来だけで、現在には、何の縛りもないことになっている。結局当事者以外、知らない顔をしている。その事実に歯がゆさを覚え始めていた。贅沢だろうか、何と言われようともこの子を独占したいと思う。所有したいんじゃない。でもこんなのじゃ全然足りない。言ってしまいたいと思う。この子は、君は、将来ぼくと結婚して、お互いを制約するのだと。手を出そうとしてもまるで無意味だ。誰だろうと、みんな、時間の浪費でしかない。

 こういうままならない感情は、この十二年でとっくに抑えられるようになったと思っていた。けれどに触れただけで、まったくそんなことはないのだと思い知らされる。握った彼女の手は強張っていたけれど、拒絶されないのをいいことに指を絡めた。付け根に密着するまで深く握り込み、親指で彼女の小指を弄る。昔から、といるのは気持ちがよかった。居心地の良さに安堵したり、何かをするのは楽しかった。それだけでなく、の一挙一動にはらはらしたり、敵わないなと思わされるのがすきだった。結局のところ、に心を揺さ振られるのは心地いい。
 ふっと、視線を上げる。の横顔が見えた。彼女はじっと俯き、自分の膝あたりを見つめているようだった。その頬や耳、オペレーターの制服から見える首までもが、一目でわかるほど真っ赤に染まっていた。

 ――。呼びかけようとして、思いとどまる。上擦りしそうな声の代わりに、丁寧に息を吐く。
 最近、もしかしたらは、ぼくと同じ気持ちになっているんじゃないか、と思うときがある。だとしたら不思議だ。はどうして、ぼくにすきだと言わないんだろう。




16│top