『まずは五本勝負でいい?』


 内部通話を通した一彰の声で覚醒する。ぼーっとしてた。自分が、暗い個室の中、武器やポイントが並ぶパネルの前で立ち尽くしていたことを思い出す。「うん」隣の個室にいる一彰を想像し、慌てて画面へ手を伸ばす。これに最後に触ったのは、いつだっけ。入隊してすぐのオリエンテーション以来だっけ。そのあと一回くらい使った気がするけど思い出せない。どうせ勇気が出ないままボロ負けしたから、記憶を混ぜてしまっているのかも。訓練生になってもうすぐ一ヶ月経つというのに、未だに操作がぎこちないのはそのせいだ。
 一彰の指示の元、パネルの下に表示されている黒いボタンを押すと、一覧に正隊員分の部屋番号が追加された。一彰のそれを探し、一応使用武器を確認する。隣の部屋の、わたしの何倍もあるポイント数に思わず息を飲む。

 十六歳の誕生日を祝ってもらった次の日、約束通り一彰と個人戦をしに来ていた。家からここに来るのも一緒だったから、緊張と照れで心臓はずっとばくばくと高鳴っている。大きく息を吸い、ゆっくりと吐いてみたけれど、あんまり効果はなかった。
 一彰は昨日、わたしが今まで忘れていた、結婚の約束を思い出させてくれた。そしてそれを守ると、「すきだよ」と、言ってくれた。純粋に嬉しくて、昨日からずっと浮き足立っている。同時に恥ずかしくもあって、まだ今日はちゃんと顔を見られていない。
 一彰は、わたしのことがすきなんだ。幼なじみとして大好きで、尊敬もしている人。こうなりたいと憧れてもいる。そんな人が自分をだなんて、有頂天になってしまうのも無理ないでしょう。でも、それは横に置いておいて、今日はボーダーの先輩として胸を借りるつもりでぶつかろうと思った。たぶん、ぶつかれる。大丈夫。『こっちは大丈夫だよ』「じゃあ、押すね」応答し、意を決してパネルを押す。押してすぐ、さっきまでの緊張と違う、血の気が引く感覚を覚えた。でもやっぱり、気付かないふりをする。

 一本、二本とあっという間に取られた。訓練で相手している近界民や、二度模擬戦をした訓練生とは勝手がまるで違った。とにかく攻撃が速くて身体が追いつかない。こちらが踏み込む動作に入る前に一彰の刃が身体を斬っている。手も足も出ないとはこのことだった。
 個室の緊急脱出用のマットに寝転がったまま、どっどっとうるさい動悸を全身で感じる。いい動悸じゃなかった。暑くもないのに汗が滲んでいる。換装体なのに、心なしか息も荒い。嫌な予感が手足に絡みついて、金縛りのようだ。ごくりと固唾を呑む。眼前に迫る何かから、目を逸らしたい衝動に駆られる。


『大丈夫?少し休もうか』
「だいじょうぶ……」


 なんとか重い身体を起こし、俯いたまま息を吐く。視界がぐにゃぐにゃとうねっている。
 一本目も二本目も同じだった。仮想の市街地で、対峙する一彰が孤月を構え向かってくる。受け太刀をする。防御で精一杯。こちらから振りかぶっても、一彰が刃で受け止める。それだけ。それだけだ。

 三本目で片足を落としたわたしの胴を真っ二つにして、いよいよ一彰も様子がおかしいことに気付いたのだろう。四本目は明らかに手を抜いていた。こちらをよく観察する、隙だらけの一彰に一矢報いるチャンスは確実にあったけれど、わたしはことごとく躊躇し気付かないふりをした。
 五本目はついに攻撃をしてこなかった。市街地の開けた道路上で、孤月を腰に差したまま待ち構える一彰の視線が怖かった。氷のように冷たく、感情のかけらもない、蔑視すらしている気がして、見ることができなかった。わたしの両手には孤月という武器が握られているのに、三メートル先の一彰は鞘に収めたそれに利き手でもない右手を添え、ただ立っているだけだった。少なくともわたしには彼から、戦う意欲が感じられなかった。ただしそれは、間違っても自分が口にできる指摘ではなかったけれど。


「ブレードのスタイルが合わないなら射手や狙撃手にもなれるよ」
「あ、合わなくない……」
「そうだよね。訓練の成績はいいって言ってたもんね」


 言うなり、一彰が孤月を抜いた、次の瞬間には間合いを詰められ、供給器官を一突きされていた。退場する最後の瞬間まで、一彰の目は見られなかった。

 五本勝負は三十分と経たずに終わっていた。五度落ちたマットの上でしばらく放心して、それから、今すぐに消えたいと強く思った。どうにかしてここから消え去ることはできないか、考えたけれどそんな方法はもちろんなく、観念して重い足取りで個室を出たのだった。
 開いたシャッターをくぐってすぐ、左の視界に一彰の姿が映る。びくっと身体が跳ねる。隣室との間の壁に寄りかかり腕を組んでいた彼は、流し目でこちらを見たと思ったら、壁から背を離し、わたしの前に立ちはだかった。


「どうして言わなかったの?人に攻撃できないって」
「ち、違う、ちょっと今日、まだ勇気が出なくて……」
「そう。いいよ、わかったから」


 おそるおそる、顔を上げる。一彰はわたしを見下ろしていた。感情を一切見せていないはずの眼差しと口角が、わたしを責めているように見える。きっと勘違いじゃない。辺りの酸素が薄くなったみたいに息がしづらい。身体が動かない。


「明日からオペレーターに行きな」


 一彰の口から紡がれた言葉に、頭が真っ白になる。予想だにしていなかった指示にまばたきを忘れる。とても、わたしにボーダーに入らないかと勧誘して、自分と同じ武器を勧めて、模擬戦が楽しみだと笑ってくれた人の台詞とは思えなかった。
「なんで」かろうじて漏れた動揺に、一彰が揺さ振られることはなかった。


「当たり前だろう。転向するって伝えに行くよ」
「やだ、なんで」
「言いにくいなら一緒に行ってあげるから」


 一彰がわたしの手を掴んだ瞬間、はっと息を飲み、全身が硬直した。一彰に手を引かれたことは何度もある。なのに、わたしを絶望へ誘う案内人のように、強引に引っ張ろうとする彼は見たことがなかった。反射的に足を止め、抵抗する。


「やだ!」

「なんでよ、人を攻撃できなくたっていいでしょ、近界民は倒せるもの」
「本当にそう思ってるの?」


 聞き返され、返答に窮す。一彰はわたしより何倍も頭がいい。だからときどき、彼の頭の回転についていけないことがある。一彰が何を言いたいのかわからない。どうして今、そんな冷たいことを言うのか。信頼している人とうまくコミュニケーションが取れないというままならない現状に、いよいよ目頭が熱くなる。


「近界民さえ倒せればいいのなら、どうして対人の個人戦やチーム戦をしているの?」
「……」
「少し考えたらわかる。早くおいで」


 再度強引に引っ張られ、足がもつれる。転ぶことはなかったけれど、一彰が力ずくで物事を進めようとしていることがショックで、その真っ黒な衝撃だけで思考が埋め尽くされていた。さっきから冷たい声が嫌だ。こんなことする一彰見たことない。おぼつかない足取りであとについていくわたしを、一彰が一切気遣ってくれない、これが現実だというのが信じられない。
 わたしは漠然と、一彰に見放されたと思った。誰より尊敬していて大好きな幼なじみに、彼に呆れられるということは、この上ない恐怖だった。いつも優しくて正しい一彰に、おまえは駄目な奴だ、間違っている、と突きつけられることが、こんなにも心を引き千切られることだと思っていなかった。絶望が、こんなに近くにあるなんて、思ってもみなかった。今や一彰は、わたしに最大の絶望を与える人間となっていた。


「か……」


 声に出した途端、堰を切ったように感情が雪崩れ込んでくる。目の前が暗くなる。抗えない。深い悲壮に飲み込まれるまま、口を開いていた。


「かずあきこわい……」




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