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泣き腫らした次の日のわたしの目は悲惨だった。なんとか蒸しタオルを駆使して抑えることができたから周りの人にはばれなかったけれど、朝は本当に酷かった。
あの放課後のおかげで大分すっきりしたのは本当で、それでも諦めないと決めたからには塞ぎ込んではいられなかった。次の日には桃井さんに笑顔を向けることができたと思う。そしていつものように無償に与えてくれる彼女の笑顔でさらに元気をもらった。
それから二日後の金曜の朝、校門をくぐったところで目の前に祥吾くんが歩いているのが見えた。ほとんど毎日あるらしいバスケ部の朝練に本来出ているはずの彼がこの時間わたしの前を歩いていることはありえない、ということはつまり。……またサボってるのかあ。仕方ないなあ、と思いながら、タオルを返すついでに声を掛けた。


「祥吾くんおはよー」
「……おー」


あれ?と思った。いつにも増して素っ気ない態度なのだ。どうしてだろうと思いつつ、「今日もサボったの?」と特に責める風にでもなく至って何でもないように聞くと、突然祥吾くんにギカッと睨まれた。と思ったらすぐに前を向いて歩き出してしまったので慌てて追い掛ける。


「あんなクソつまんねー部活辞めてやったわ」
「…え?!」


本当に驚いて、そのまま声を上げたら周りの何人かに視線を向けられた。そんなことには気にも留めず、わたしは目の前の祥吾くんに神経を集中させた。…退部、したのか。いつの間に。「い、いいの?」何がかは自分でもよくわかってなかったのだが、口をついて出た台詞は祥吾くんの癇に障ったらしい。「いちいちうっせえな。辞めたっつったら辞めたんだよ」また見下したように睨まれる。……機嫌がよくない。それは彼の様子を見ていれば一目瞭然で、そんな祥吾くんに対する賢い判断はさっさと距離を取ることなのだろうけれど、しつこい知りたがりのお節介がわたしをそこに居座らせた。


「なんで辞めちゃったの?」
「なんでもいいだろーが。てめえに何の関係があんだよ」
「…それはそうだけど」


しかし理由すら教えてもらえなかった。これ以上祥吾くんを詮索しても何も答えてもらえないだろうと思ったわたしは知りたがりをパタンと心に閉まい、すぐにハッと思いついた。桃井さんに聞けばいいのではないか、と。マネージャーの彼女なら何か知っているかもしれないし、話し掛ける話題ができたではないか。よし、じゃあ祥吾くんにはもう聞かないでいいや。タオルだけ渡して、昇降口で別れよう、と思いスクールバッグの口を開けながらもう一度名前を呼び掛けた。


「祥吾くん、」
「その呼び方もうぜえ。リョータみたいで胸糞わりィ」


ピタリと手を止める。ばっさりと切られたその台詞に、一瞬何を言われたのかわからなかった。「…え」顔を上げると祥吾くんはひどく顔をしかめていた。どうやら思ったより機嫌はすこぶる悪いらしい。そんなことをうざがられるとは、思ってもみなかった。出会ってからすぐに名前で呼び合うようになって今までお互いずっとそれで呼んでいたのに、その言い方はなんだ。黄瀬くんと同じ呼び方だか何だか知らないけど、ハイそうですかなんて納得して謝るわけないだろうが。珍しく頭に来たわたしはバッグからタオルを乱暴に取り出し、乱暴に祥吾くんに投げつけた。「おわっ」それでも反射神経のいい祥吾くんに難なく受け止められてしまったので全然すっきりしなかった。


「…わたしが先だった!」
「あ?」
「祥吾くんって呼んだの、わたしが先だったじゃん!!」
「はあ?そういう問題じゃねえんだよ」


表情だけでわかる。わたしを鬱陶しがっているのだ。そういう問題じゃなかったらどういう問題なのかわからない。聞いたってまた機嫌を損ねられそうで言い返す言葉が見つからず、ぐっと唇を噛んだ。……中学に入ってから、祥吾くんと話すと高確率で気分を害す。もう近付かない方がいいのかもしれない。中一の四月みたいに赤の他人のままでいればよかったのかもしれない。そんな考えが頭に浮かんでしまう。
でも、と思う。小学生の頃の彼や、三日前のあのときの彼がわたしの記憶にいる限り、絶交なんてしたくないと思う。平気で人を傷つける祥吾くんも、わたしを連れ回して楽しませてくれる祥吾くんも、興味のない話でも聞いてくれる祥吾くんも、全部君だと。だから、縁を切られないように我慢をするのだ。中学に入ってから彼に対して、わたしは大体いつもそうしている。


「…タオルありがと」
「…おー」


さっき考えた通り、昇降口で別れる。こんな後味の悪い別れ方をするつもりじゃなかったのに。どうしてだかわたしは、祥吾くんとの親しい関係を再構築できなくなってしまっている。祥吾くんはわたしに興味を持たなくなり(小学生のときにあったかも定かではないが)、わたしも祥吾くんに気を向ける時間はとても少ない。お互いの無関心がこの現状を作り出していると思う。今、わたしたちは全く違う方向を向いている。
…でも、こんなことを考える自分は彼に対して全くの無関心ではないと思うのだ。そう思うことである種の後ろめたさから逃れ、わたしに目もくれず一人で昇降口を通り過ぎていく祥吾くんの後ろ姿を一瞥し、のろのろ上履きに履き替えた、ところだった。


「おはようちゃん」
「、桃井さん!おはよう」


沈んだ気分を引っ張り上げてくれるのは桃井さんだ。彼女の笑顔には何か特別な力があるのではないかと思う。
挨拶もそこそこに早速祥吾くんのことを聞いてみると、彼女も理由はわからないと答えた。おととい退部したと昨日の朝突然知らされて、それからまだ祥吾くんに会っていないのだと。


「どうしたんだろうね、ショウゴくん。ちゃんは何か聞いてない?」
「…聞いてないんだ。ていうか、教えてくれなかった」


彼のその応対は予測の範囲だったのか、そっかと頷いた桃井さんにわたしも頷く。バスケ部であだ名を付けるのが流行っているのか、彼女独特のそれは祥吾くんにも及んだけれど、「ちゃんがいつも呼んでるから」と言って名前呼びで定着したらしい。素直に嬉しいその理由を思い出して、少し幸せな気持ちになった。そもそも、君を名前で呼んでいる人なんて何人もいるだろう。結論ただの祥吾くんの八つ当たりでしかないのだ。気に病むだけ無駄だ、ああよかった、なんだかすっきりした。ふん、と腰に手を当て息を吐くと、それを見ておそらくわたしが祥吾くんに憤っていると思ったらしい桃井さんは苦笑いを浮かべた。


「何もないわけない、と思うんだけどね。きっと誰が聞いても教えてくれないと思うよ」


フォローしてくれただけかもしれないけれど、桃井さんの推測は当たっている気がした。きっとわたしにだけじゃない。気が立っていた祥吾くんは誰にでもああいう態度を取ったのだろう。もう気分は晴れていた。