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年度初めのクラス替えで、今年も桃井さんと同じクラスになれた。掲示板の前で彼女の手を取り飛び跳ねたわたしと同じくらい桃井さんも喜んでくれて、今年も楽しい一年になるだろうとそんな予感がした、二年生の四月。春は桃井さんと似ているからすきになった。

それからすぐに新緑の季節になり、徐々に近付く夏休みにわくわくしていたある日の今日は朝からいいことが続いていたのだ。携帯のアラームが鳴る五分前に起きれたし朝ごはんはわたしのすきなシナモンロールと飲むヨーグルトだったしブラシで一度梳かしただけで寝癖が直って髪がまっすぐになった。とにかく絶好調だったのだ。だから今日はいい一日になるんだろうと、勝手に思っていた。

いつもと同じ時間に昇降口に着きいつもと同じペースで上履きに履き替え、しばらく待っても桃井さんは来なかった。バスケ部が来る時間を割り出したといってもあくまで暫定的なものだから日によってまちまちで、必ず毎日会えるわけではない。しかも二年生になって勝手が変わってきたし、桃井さんがここに来る時間も振れ幅が大きくなってきた気がする。
でもなんとなく、今日は絶好調だから会えると思ったんだけどなあ。内心がっかりして、一人で教室へ向かった。


「おはようちゃん!」


桃井さんが教室に入ってきたのはそれからほんの数分後だった。惜しかったのかと苦笑いしながらおはようと返す。桃井さんは依然にこにこしていて、伊達に一年彼女を追い掛けていないわたしはそれが桃井さんにとっていいことがあったことを意味するのだとすぐにわかった。何だろう、朝練に出ていたはずだから、バスケ部関係かな。そんなことを悠長に推測していたわたしはなんて能天気だったのだろうか。


「ねえちゃん、黒子テツヤくんって知ってる?」


その台詞に、一気に心臓が浮いた、感じがした。単純な問い掛けが、まるで違う意味を含んでいるように聞こえたのだ。桃井さんはやっぱり笑顔でわたしの返事を待っている。違う、わたしの勘違いだ、頬が赤い気がするのは気のせいだ、と、思いたい。のに、笑顔が作れない。
桃井さん、それ、どういう意味で聞いてるの?


「し、知らない……」
「あのね!バスケ部の一軍の選手なんだけどね、もうすっっごくかっこいいの!こないだね、」


桃井さんの綺麗な声はとてもすきだ。いつもわたしは、彼女が話すのを一言一句聞き漏らさないよう集中して聞いていたし、自分の中に降ってくるその声が音になって響いているのを楽しみにしていた。なのに今、わたしの中には何も降ってこない。耳を誰かが柔く塞いでいるような、そんなぼやけた声しか聞こえないでいた。桃井さんが何を言っているのか、聞いて瞬時に通り過ぎていく。でもそれを受け止める勇気はないから、頑張ってその手を振り払ってちゃんと彼女の話を聞こうなんてこともできない。


「もうね、大好き!」


咲き誇る笑顔、今までで一番綺麗なその表情を引き出したのはわたしじゃなかった。とどめの一言を告げた桃井さんはわたしを見ても何も不審に思っていなさそうだから、もしかしたら自分は今ちゃんと笑えているのかもしれない。全然そんな気しないけれど。
それか、考えたくもないけれど、桃井さんの中でわたしはもう気を向ける対象ですらなくなってしまった、とか。

(どうしよう。)視線を泳がせ絞り出した声が何を言ったのか、よく覚えていない。





終始ぼんやりとして気付けば放課後だったけれど、多分お昼ごはんはいつも通り食べたし掃除当番はないから特に問題は起きていないだろう。あとはもう帰るだけだ、早く帰ろう。からだ全体が圧迫されたような感覚は、時間が経った今でも依然消えていなかった。校門をくぐり、力のない足で帰路につく。どうしよう。明日から、どうしよう。そもそも、今日の時点でもしかしたら桃井さんにひどい態度をとってしまったかもしれない。全然覚えてない。ごめんなさい、ごめんね桃井さん。
コンクリート舗装された道路だけを視界に入れていたのを、もうすぐ信号だろうと顔を上げた。と、先にいた信号待ちの人物が目に入り、その人が誰だかを認識した瞬間、わたしは走り出した。向けられていた無防備な背中にそのまま突進する。


「うおっ?!何すんだてめっ…て、かよ!」
「……」
「オイ、離せコラ」
「……うう」
「は?なに泣いてんの?」


一緒に倒れるかとも思ったけれど祥吾くんはそんな貧弱ではなかったらしい。ブレザーをぎゅっと掴み、背中に顔を押し当てようやく、今まで耐えていた圧迫から解放されそうだった。嫌な心臓が脈打つ、感情の波がせり上がってくる。

桃井さん、ひどいことしてたらごめんなさい、でも、わたしも、どうしようもないくらい、悲しかったんだよ。


「うっ…うあ゛ああああああん」
「え、なにマジで」
「桃井さんすきな人できたってえええええ」
「…あーなるほど」


周りのことも考えず思うままに泣き喚いた。なんでとか、嫌だとか、色々喚いた。祥吾くんに言っても仕方ないしどうにもならないけれど、本人になんてとても言えないから彼しか当てつける相手がいないだろう。祥吾くんとはクラスが違う。二つ隣のクラスだから一年よりは遭遇回数は増えたと思うけれど、ちゃんと数えたことはないし間柄も去年とまるで変わっていない。わんわん泣き喚いたあと、祥吾くんにとりあえずブレザー濡らすなと無理やり剥がされ、スクールバッグに入っていたスポーツタオルを顔に押し付けられた。桃井さんのことを思うといくらでも涙は零れるのだが、祥吾くんに遠慮なしに顔をそれでごしごし拭かれた痛みに少し気分は落ち着いた。


「痛い、痛い祥吾くん」
「痛くしてんだよバーカ。さっさと泣き止め」
「止まった、止まったから」


「あっそう」と止められタオルが離れるとまたボロッと零れてきたので祥吾くんはそれを見て顔をしかめ、これ持ってろとタオルを乱暴に差し出した。ありがたく使わせていただく。ずびびと鼻をすすると溜め息をついた祥吾くんに手を引かれコンクリート塀の近くまで移動させられた。通行の邪魔、というよりは人の目を気にしてのことだろうと、あとで思った。気付くと信号は青からまた赤に変わっていた。
祥吾くんは泣いて真っ赤な顔のわたしに視線を向けながら壁に寄り掛かった。「で?」問うてくる彼に、しかし何を聞かれているのかわからず、わたしは首を傾げた。


「いつかこうなることくらいわかってたろ、なのになんでそんなビービー泣くんだよ。意味わかんねえ」
「…………」
「オイ黙ってんなよ」


いつか、桃井さんにすきな人ができて、それがわたしじゃない、容易に起こりうるその事態にまるで心構えをしていなかった。どうしてわたしは、桃井さんに今すきな人がいないというだけであんなに安心していたのだろうか。今いないだけで今後できない保証なんて誰もしていない。自分の恋が成就するなんて都合のいいことも思っていなかったけれど、こんな結末も全く頭に浮かばなかった。……だってそうでしょ、嫌なことなんて考えたくもない。
黙りこくるわたしに痺れを切らしたのか、祥吾くんはだるそうに頭の後ろで手を組んだ。


「まいーや。これで目ェ覚めたろ。元から頭おかしかったんだよおまえは」
「…やだ!」


それにしても、あんまりじゃないか。朝の準備がスムーズだったってだけで、その仕打ちがこんなことだなんて、釣り合いが取れてないよ。


「……はあ?」
「諦められないいい…」


桃井さんにそんなことを言われたって、諦められる気なんてまったくしない。わたしまだ桃井さんのことすきなんだよ。今、望みがないって諦めたらわたし、これから先何にも頑張れなくなりそうだ。報われないんだもの、ずっと桃井さんのそばにいられるように頑張って、今だってすきなのに、最後にして落ちがこんなのだなんて、どうしても納得したくない。終わりになんてできないよ。「ほんとバカだなおまえ」呆れ顔の祥吾くんには一生理解してもらえないだろう。どう考えてもわたしと祥吾くんでは恋愛に対する姿勢がまるで違う。だからきっと、君に理解してもらいたいと思うわたしがいけないのだ。「しょうがないじゃん、だって、」こういうのは意思で決められることじゃないと思う。それを説明しても祥吾くんは納得なんてしないのだろう。


「へえ。じゃあ勝手にすれば」


祥吾くんはつまらないことで満腹だというかのようにうんざりした様子だ。最初からなかった興味はさらに失せたらしい。わたしもこれから祥吾くんと口論する元気なんてないから、そう言って一人で帰ってしまった彼に少しほっとした。

感謝はしているのだ。圧迫からすっかり解放されて楽になったのは君のおかげだと思うよ。祥吾くんと今日会えてよかった。ブレザーを濡らしてタオルも借りて、それでも受け止めてくれたことに免じて、今日の部活をサボったことは言わないでおいてあげる。