元来噂というものに特に関心を抱かない質で、森山の件も例に漏れず本人が撤回していたときに初めて知ったものの、誤情報が流れるとは災難だったなと同情だけして終わった。が、その数日後廊下で森山と女子生徒が並んで歩いているのを見かけたときにはすぐにそれを思い出し、あああれか、と納得した。見覚えのない女子だった。といっても同じクラスの女子ですら完全に把握する前にクラス替えが行われるのでたとえ一、二年で同じクラスだったと言われても納得してしまえるだろう。なんだったか、たしか黄瀬をすきなんだっけか。


「ねえゆりこちゃん、ついでにプリン買ってよ」
「自分で買え」


どうやら購買に行くらしい。向かいから歩いてくる森山が俺に気付き片手を挙げた。それに対して同じように応答しすれ違ったあと、なんとなく一度だけ振り返った。五月半ばからだと言っていたか。付き纏われてからまだ半月ぐらいだろうに、森山は俺から見ても随分自然体に見えた。それにしても。



「変わった名前で呼ばれているんだな」
「…は?」


部活の前に昼休みの出来事を思い出しながらそう切り出すと、森山はすぐに何のことだか理解したらしく顔をしかめた。「何言ってもやめないんだよあいつ」「へえ」「言っとくけど笠松のこともあだ名で呼んでるからな」森山の予想外の発言に思わず聞き返そうとしたそのとき、


「何の話っスか?」


荷物を持ってずかずか近付いてくる奴がいた。言うまでもないが黄瀬である。森山の噂は三年のバスケ部という限られた範囲でしか出回っていなかったため、レギュラーとして俺たちと関わりの多い黄瀬でもそれは知らないようだった。三年の階に一年が来ることはほとんどないため、今までの俺のように彼女の存在に気付くこともなかったのだろう。森山が女子生徒といる姿なんかを見たらすぐさま食い付きそうだしなこいつ。
しかし俺から説明するのはお門違いというか、正直面倒なので森山に投げることにする。横目でそいつを見るとさっきのしかめた面のままだった。


「何でもない」
「えっ何スかそれ?!逆に気になるんスけど」
「おまえには絶対教えん。ほら先行ってボール出しとけ」
「森山先輩ひどい!」


笠松先輩、と情けなく泣きつかれそうになったのを上手くかわすと諦めたのか黄瀬はがっくり肩を落として部室を出て行った。「ひどい、二人ともひどいっス」ぶつぶつ何か言っていたがよくあることなので気にしない。しかし森山があそこまで黄瀬を除け者にするのは珍しかった。どちらかと言うと黄瀬とは親しい方で、悪ノリのようなことをよくしているというのに。
と、ここでやっと合点がいった。あの女子生徒は黄瀬に好意を抱いているのだ。森山の撤回を周りが信じたのは付き纏われている理由がそれだったからだ。まさか本人にそんなことを暴露していいはずがない。なるほど、彼女に気を遣ったのか。少し感心していると森山はジト目でこちらを見返してきた。


「黄瀬には絶対言うなよ。の存在すら教えるな」
「ああ、……?そこまでするのか」
「する」


どうしてだ、と問う前に荷物を持って部室を出て行った森山にしつこく聞く気にはなれなかった。そもそも俺がいちいち口を出すことでもない。あくまで本人たちの問題だ。それにこの手の話題で力になってやれる気もしないから、首を突っ込むなんて慣れないことをするよりは黙って森山のすきにさせるべきだろう。どこか緊張した森山の背中を眺めながら、体育館へ向かった。

何はともあれ、最近の森山は一貫して楽しそうだったからよかった。黄瀬にちょっかいを出す回数が前より増えたように感じるが部活風景の一部として特に問題はなく、この日も黄瀬にメニューの三倍の量を課そうとして結局俺が止めに入ったぐらいだった。





だが先週の練習試合後、部室から戻ってきたときのあいつはどこか様子が変だった。雰囲気が暗いのだ。小堀がどうかしたのかと聞いてもいいやと首を振るだけで何も答えはしなかったものの、試合中あんなによかった調子は自主練のときにはズタボロで、何かあったとこは明白だった。次の日にはなんとか持ち直していたようだったがまだ本調子ではなかった。今日のオフが上手く効けばいいんだが、と思いながら教室を出た。
少し用があって森山のクラスを訪れるとそこは無人だった。前に貼ってある時間割を見て知ったが四限は移動教室らしく、クラスの生徒は昼休みに入った今でもまだ誰も戻ってきていなかった。仕方ない、少し待つか、と思い入り口から踵を返そうとした。


「森山ならそのまま購買に行っちゃったよ」


突然聞こえてきた女子独特の高い声にビクッとしてしまった。落ち着け、と念じながら振り返り、そして瞠目する。声の主は驚いたことに、例の噂の彼女だったのだ。今「森山」と呼んだ気がしたが…俺に気を遣ったのだろうか。


「あ、ああ、そうか」
「さちおくん何か用だった?」
「(……これか)…ゆきおだ」
「あ、ごめんなさい」


口を手のひらで隠した彼女からは謝罪の誠意は感じられなかった。なるほど、森山の言っていたことがなんとなくわかる。俺に付けられたあだ名の由来もわかるし、奴の言うことが正しいのならここで俺が何を言ってもそのあだ名は変わらないのだろう。そもそもこんな偶然は今回限りで、接点もない彼女とは今後関わることはない。必然的に、呼ばれることもないだろう。というか親しくもなければ更に女子である相手とこれ以上会話を続けるのは精神的にきつい。早く切り上げるために一旦戻って飯を食ってからまた来よう。視線を廊下に落としたままそこまで考えてから顔を上げる。じゃ、と軽い挨拶をして去ろうと思ったのだ。その計画は彼女によって見事に打ち砕かれたが。


「代わりに渡しておこうか、プリント」
「……、…ああ、頼む」


俺は至って善意である厚意を無下にあしらう術を持っていなかった。女子への苦手意識が改善される兆しはまるでない。森山への用であったそのプリントを渡すと、受け取った彼女は「あ、ねえ」と何かを思い出したように台詞を繋げた。まだ解放されそうにない。


「あの人わたしのこと何か言ってる?」
「……黄瀬のことか?」


あの人、と言われて一番に思いついた人物だった。彼女は黄瀬に好意を抱いている、その印象が強かったのだと思う。プリントを見ているのか、わずかに俯いた彼女の表情は完全には捉えられなかったが、「…うん、そうそう」声のトーンからして笑っているのは確かだった。
出来れば手短に終わらせたかった会話だったが、イエスとノーで答えられない質問を投げ掛けられてはそうはいかない。情けないところは見せるまいとしながらも内心はひどく焦っていた。ああなんだっけ、黄瀬がこいつのことを何か話していたか、か。そこでハタと気付く。考えるまでもなく、その答えは一つしかなかったのだ。


「話すも何も、あいつあんたのこと知らないんだろ」


森山は彼女の存在すら黄瀬に教えまいとしていた。それを聞いてから何日も経ってはいるが二人の様子に変化は見られない。だからつまり、そういうことで間違いないんだろう。


「それもそうか」


わかっていたかのように、笑顔は依然崩さずそう答えた彼女はどこか掴めない。もういい加減終わろう、と限界を感じながら「それじゃ」と踵を返した。


「…意地悪だねえ、さちおくん」


その声に振り返ると、彼女はやはり笑っていたがわずかに哀愁を滲ませていた。何か意地の悪いことを言ったか?と考えたが、あれは厳然たる事実だったし、そういう意味じゃないとしたら適切な答えは思いつかなかった。


「…それはどうも」


流すような返事をしても、最後まで彼女の笑顔は絶えなかった。