すぐさま鎮火することに成功したものの、事の発端が目の前のだということは言われなくても身に覚えがあったので、二度とあんな誤った情報が流れない為にもこいつとは極力関わらない方がいいとはわかっている。が、俺の風評被害も余所に彼女が六月の下旬を迎えた今となっても俺に付き纏うのをやめる気配は見られない。本日の昼休みも例外なく、俺の優雅な一人の時間は見事に妨害された。前の席に座り身体を横に向けた状態でぼんやり外を眺めている彼女をちらりと見遣る。外を眺めるだけならここに来なくていいだろ、という文句は以前受け流された経験があるので言わない。


「あ、あのカチューシャ可愛い。すきだなあ」


黄瀬トークに始まり、こいつの至極興味の湧かない話をひと月聞いてきてわかったことは、こいつは結構いろんなものがすきだ、ということだった。すきな女優を羅列し、俳優の名前も同じくらい挙げる。すきな食べ物は食材名から料理名まで広がり数える気にもならない。アーティストはJ−POPを中心にグループ名や人名を脈絡なく聞いた。もちろん、のすきなもので頭を一杯にするなんてことはしたくないのでほとんど聞き流していたため、それらについて覚えていることはほんの少しなのだが。
の見ている方に目を向ける。窓から見えるコンクリートの通路を歩く女子の頭には、確かにピンク色のカチューシャがついていた。後ろ姿しか見えないが、あの子俺のタイプそうだな、と思った。俺の関心はもっぱらそれだった。


「可愛いな」
「ね。カチューシャ一個ぐらい持ってたいな。ずっと付けてると頭痛くなるっていうけど」
「へえ」


それは知らなかった。ということは、世の中のカチューシャを付けている女の子たちはみんな頭痛を覚悟してお洒落に取り組んでいるのか。いいなそれ。自分磨きに励む子はみんな可愛い。


「あ、あの子のポニーテールの形すきだなあ」
「…おまえってすきなもの多いよな」
「? そう?」


首を傾げ斜め上に目を遣りながら思案するに、自覚がないのかと思う。事あるごとにすきだすきだと言っているあれは何だったんだ。
エアコンが切られている教室は暑い。全開の窓から入ってくる風がの髪をなびかせていた。なんだか眠くなってきたな。こいつの相手をするよりも、伏せて眠ってしまった方が有意義かもしれない。


「たしかに黄瀬くんはすきだけども」
「……」


知ってる。それも何度も聞いたが、それとこれは違うだろ。おまえにとっての黄瀬とポニーテールは一緒だとでも言うのか。違うだろ、黄瀬はおまえの中では特別だろ。柔らかく笑う彼女の乱れる髪を耳に掛けてやりたいと思った。

思考回路が一時停滞していたのだろう。


「俺は?」


目をぱちぱちと瞬かせるを見ても、自分の今言ったことに対して動揺はしなかった。眠気で覆われたその下には対抗心だとかもっと取り返しのつかない感情があるような気がしたが、それにも目を逸らした。ただの気まぐれということにしておこう。彼女はまた思案し出した、と思ったら案外早く結論は出たらしい。「ゆりこちゃんのことは」


「嫌いじゃないよ」
「……は?」


バチンと頬を叩かれた気がした。途端に頭が冴え渡る。いい意味でじゃない。眠気が取り払われ、隠れていた感情が這い出してくるように思えた。なんだよ嫌いじゃないって。おまえそこは、………。


「嫌われてる心配なんてしてねえよ」
「あれ、そうか」


そこで話は途切れた。鐘が鳴り、いつも通りじゃあねと言って席を立つを目で追うことはしなかった。ようやく冷静さが戻ってきて、俺の心の中には安堵の気持ちだけが残っていた。

聞き返されなくてよかった。聞き返されていたら、俺は彼女に何と答えていただろうか。





土曜の練習試合はウチで行われた。一試合目は互いのレギュラー同士が戦うので先程スターティングメンバーに呼ばれた俺はアップを終え試合前の短い練習をしていた。シュートは好調。問題はない。一度コートから離れ、ベンチ付近で柔軟をやっている小堀の元へ近付いた。ちらちらと体育館の入り口から覗いているギャラリーをチェックするのは最早習慣だ。黄瀬が来てからタイプの女の子を探せる機会は格段に増えた。被る迷惑は確かにあるが、結局はラッキーである。あ、あの子可愛い。


「小堀、右の出入り口にいる二つ結びの子めっちゃ可愛い。俺今日はあの子の為に頑張る」
「はは…どうせ黄瀬狙いの子だろ?」
「問題ない。きっかけは黄瀬でも最終的に絶対俺をすきになる。運命を感じる」
「はあ、そう。頑張れよ」


小堀のやや気の抜けた励ましにグッと親指を立てて応答する。ふと見えた向かい側の入り口にもタイプの子を見つけたのであの子の為にも頑張ろうと思った。

結局試合は海常が全勝だった。相手校に挨拶をして見送り、片付けや整備が終わり解散となった頃には午後の五時を回っていた。これから小堀たちと自主練をすることになっているので、荷物を持ち一度部室に戻った。練習着に着替え、すぐにまた体育館へ向かう。明日も朝から一日練習だからあまり長くやらない方がいいな。疲れが取れないし、そのせいで怪我なんかしたら大ごとだ。
準備の早い笠松や用意周到な小堀はもうすでに支度を整え体育館で待っているだろう。いや、先に始めているかもしれない。急いだ方がいいな、と走る足を踏み出したそのとき、目の前を歩く女子生徒に気が付いた。さっき試合前に俺が目を付けた子、じゃない。どうしてこいつが休日にここにいるんだ。





呼び掛けた声に振り返ったそいつはやはりだった。おお、と素直に驚いている様子の彼女に、二人を待たせていることも忘れ駆け寄った。どうしてここに。まさか。


「おまえ試合見てたのか」
「見てた。黄瀬くんかっこよかった!」


予想は当たっていた。俺を見上げる目はついこの間と同じようにきらきらしている。そうだ、よく考えれば今まで来なかったことの方がおかしかったんだ。すきな奴が一番輝くであろう瞬間を見たいと思うのは当然のことだ。あまりわかりたくはないが、多分黄瀬はバスケをやっているときが一番かっこいいのだろう。「あーそうかそうか、」相槌を打ちながら、じわりと腹の底に黒い何かが滲むのを感じた。はっきり言って、むかつく。


「でも俺もかっこよかっただろ」


おまえ今日が初めてだから知らないかもしれないけど、今日の俺かなり調子よかったんだぞ。そうやって黄瀬を思い出して笑うみたいに、俺を見ろよ。


「あー…?ゆりこちゃん見てなかった」
「……おまえな…」


あーくそ。なんとなくわかっていたが正直に答えられるとむかつくな。そんなに黄瀬は吸引力があるというのか。あー馬鹿馬鹿しい。さっさと告るなりなんなりして振られてしまえばいいんだ。俺を顧みないおまえなんか。


「ふはっ。でもわたしの近くにいた子とか結構ゆりこちゃん褒めてたよ」
「…まじか。可愛かった?」
「可愛かった可愛かった。よかったねゆりこちゃん」
「…おお」


多分それを、試合が終わった直後に、おまえ以外の誰かから聞けたら嬉しかったと思う。嬉しいとは思うが、よかったと喜ぶ気分になれる気がしなかった。おまえに褒められたかったなんて口が裂けても言わないが。


「それじゃ、お疲れさまゆりこちゃん。月曜日オフだったら一緒に帰ろうね」


手を振って去って行くを今度は目で追う。振り返らない背中を呼び止めたかったが、でも言いたいことはまとまらなくて結局ただ見送るだけだった。俺は彼女に何を伝えたいのだろうか。言いたいことは常に複雑に絡まっていて、口に出すにはもっと綺麗な一本の糸にするべきだと思うから、彼女にかける言葉はいつも本音から少しずれたところから出てくる。腹の底に滲んだそれの解明はしたくないけれど、払拭もできそうになかった。


(きっかけは黄瀬でも最終的に絶対、)


「あ゙ー…心臓いてえ…」


俺をすきになれ、このやろう。