夏休みが明けた初日、いつも通り朝練を終え教室に向かうと、教室前の廊下に設置されたロッカーから教材を取り出しているを見つけた。彼女のは二つ重ねられた下段らしく、しゃがんだ体勢で太ももの上に教科書やらノートやらを器用に積み上げていた。いつも軽そうなスクールバッグを背負っているなと思っていたが、さてはこいつ、置き勉を貫徹しているな。そういえば前にそんなことを言っていた気もする。
こちらが声を掛ける前に立ち上がり俺に気が付いた彼女は、あっと笑顔を向け教科書類を抱えながらこちらに駆け寄ってきた。


「おはようゆりこちゃん」
「ああ…。おはよう」


彼女の動きに合わせてなびく髪に祭りの残り香を感じた。雰囲気が違うと思った浴衣姿だったが、やはりあれは間違いなくだった。日光の射し込む廊下は白く明るい。何も考えてなさそうに屈託なく笑うを照らしていた。教室に入り、まだ暑いねと話す彼女を斜め上から眺める。
木曜である今日は本来部活動のある曜日だが、夏休みの期間は定休日というものがなく月曜も容赦なく一日練習が入っていたため、代わりに今日がオフに充てられることになったのだ。土日の練習試合に備え朝練だけは出たのでカバンはエナメルだから、きっとは今日もバスケ部は午後練があると思っていることだろう。
数ヶ月前の俺だったら、それをわかった上でラッキーと言わんばかりに彼女に何も言わず適当に小堀たちと帰路を共にしていたんだろう、と考えたところで、いやそんな画策をしたことはなかったなと思い至った。なんだかんだ俺は一度も嘘をつかずバックレることもせず、律儀に毎回と帰っていたのだ。なんだかな、とここに来て負けた気分になったが、俺はおそらくずっと前から白旗を振っているのだろう。彼女には見えないように。


「今日午後練ないけど」
「ほんと?!じゃあ……あ、でもわたし放課後委員会があるんだ」
「どのくらいで終わる?」
「んー三十分くらいかな」
「じゃあ待っててやるよ」


ぱちくりと彼女の目が瞬いた。さすがにあからさますぎたか、「まじか。ありがとう!」…ってわけでもないな。嬉しそうに大きな口を開けて笑う彼女に内心喜びながら、おう、と短く返し席に着いた。

いっそ彼女に伝えてしまいたい気持ちは山々だが、小堀にも言ったとおり今回ばかりはアプローチの勝手が違うのでそういうわけにはいかなかった。今更相手に運命など感じないし口説こうとも思えず、更に言うと好かれている自信はあれどこいつのことだから俺が何のアプローチをかけてもいい友達としてしか見ていなさそうで怖い。斜め前に座るはやはり何も考えてなさそうな顔で頬杖をつき黒板を眺めていた。

一、二限を始業式と掃除に費やすと、そのあとは平常の授業が始まった。初日から六限までみっちりやるあたり海常鬼畜、とか言われているが今日オフなのはこれが理由だったりする。授業が早く終わるなら今日もきっと部活はあっただろう。だからこの日程に密かに感謝していたりするわけだ。


「それじゃあ、クラスの自由曲はそれで、次は指揮者と伴奏者を決めます」


六限のホームルームでは来月に控えた音楽祭の話し合いが行われていた。多数決で決まったそのタイトルに見覚えはなかったものの元の曲を聞いてみると去年か一昨年の音楽祭でも聞いたことがあるような気がした。近くの音楽ホールを借りて開催されるそれは残念ながら毎年熟睡コースが鉄板なので特に燃え上がる何かはない。ぼんやりと話し合いの行方を眺めていた。
そのあとすぐに吹奏楽部の笹田さんと佐野さんがそれぞれ指揮と伴奏に決まり、すごい美人タッグだな、と思いながら周りに合わせて拍手をした。来週には楽譜を配れると思いますと実行委員が締め、時間もちょうど良かったのでホームルームはそこで終わった。


「ゆりこちゃんあの曲知ってる?」
「いや、聞いたことあるくらいだな」


放課後こちらに来たは楽しそうに笑みを浮かべそう問い掛けてきた。俺が先ほど思った感想をそのまま伝えてもそれを意に介す様子もなく、依然にこにこしたまま「そっかあ。一昨年二個上の先輩歌ってたよね」と言った。ああやはりそうか。そうだったのかと相槌を打つと彼女はうんうんと無駄に二度頷いた。


「わたしあれ中三のとき歌ったんだー。気に入ってたから嬉しい」


なるほど、破顔の理由はそれか。それじゃあまたあとで、と笑顔のまま踵を返した彼女を目で追い、席に着いているのも何だと思ったので後ろの黒板の隣に寄りかかって待つことにした。
九月でも日はまだ高い。携帯をいじりながら適当に時間を潰していると笠松からのメーリングが送られてきて、土曜の練習試合はこちらが出向くことになったという旨が書かれていた。うちの体育館は設備や広さの面で他所より圧倒的に整っているためよく使用されるのだが、今回は向こうの土曜授業の関係でそう決まったらしい。あとでどうやって行くか話し合わないとな。

三十分が過ぎた頃が戻ってきたので、教室の反対側の入り口から入ってきた彼女を確認し壁から背を離した。全く申し訳なくなさそうにごめんごめんと言いスクールバッグに筆記用具やプリントをしまう彼女は小さな声で歌を口ずさんでいた。


「自由曲か?」
「そうそう。サビのソプラノがすきでね」


すきな曲に決まってそんなに嬉しいのか、カバンを肩に掛けこちらに来るは一人で楽しそうだ。相変わらず俺の存在に頓着する様子のない彼女に歯痒さを感じ、もし黄瀬だったりしたらそうはならないんだろうとかまた妬みみたいなことを考えてしまうから駄目だ。俺はおまえにこんなに一喜一憂しているというのにおまえときたら、のん気に歌なんか歌いやがって。


「お待たせしました。帰ろうか」
「……ああ…なあ、」
「ん?」


ほら、俺がどう思ってるかなんて少しもわかってないんだろ。


「おまえさ、俺に彼女ができるまで黄瀬とはくっ付けさせないって言ったの覚えてるか?」
「あー、言われた。覚えてる」
「あれ、訂正するよ」


キョトンとまん丸の目が俺を見上げる。そう、あのときから片鱗はあったのだ。ただ目を逸らしていただけで。それを思い知らせてやるよ。


「黄瀬におまえはやらん」


「……!」ワンテンポ遅れこそしたが、目が更に見開かれみるみるうちに紅潮していく頬を見て、ちゃんと伝わったみたいだな、と思った。さすがにそこまで鈍くはないようだ。
自分が何を言ったのかわかっている。多分もう後戻りはできないだろう、思いながら速くなる鼓動を感じていた。
さてどう返されるか、と構えているとはバッと下を向きそれから黙り込んでしまった。ぎょっとする。え、や、やばい、何かミスったかも、と想定外の事態に途端に焦りが湧き、とりあえず肩を叩こうと一歩踏み出した。


「お、おい、何か言えよ、」
「……ゆりこちゃん…」


このときになってやっと、俺はの耳が真っ赤なことに気が付いた。手の甲で隠した状態のままわずかに上げた彼女の顔は泣き出すんじゃないかと思わせ、そして耳と同じくらいに真っ赤だった。


「心臓死にそう…」


衝動的、という言葉がしっくりくると思う。俺は思わずの手を引き抱きすくめたのだ。心臓の音が聞こえた。自分のがうるさいけれど、別の音が確かに伝わる。ひかえめにワイシャツが握られたのを感じて、耐え切れずぎゅうと抱き締め目を瞑った。

もういいよな、いいよな全部言ったって。


「すきだ。俺と付き合って」


ゆっくりと頷いたの顔はきっと今までで一番赤いのだろう。持て余した心臓が今、幸福に満たされるのを感じた。