八時半を回り、祭りに来て一時間半が過ぎた頃。が九時に帰ると親に言ってあったらしく、俺たちは屋台の並びを抜け駅へ向かうことにした。バスケ部の人たちと合流していいよと言う彼女をいいから駅まで送るとゴリ押ししてやっと納得させることができたのだが、よく考えると屋台を見て回っていたときは人混みのせいでが俺のあとをついてくるような形だったから、今日ちゃんと横に並ぶのは座っていたときを除けばこれが初めてかもしれない、と気付くとまた心臓がうるさくなってきたのだった。
眉尻を下げて笑いながらごめんねと言う彼女を斜め上から見下ろし、ぼんやりと、今日はいつになく控えめだな、と思った。夏休み前までは俺の風評被害もよそにずけずけと絡んできた彼女だったが今はどうだろう。水飴を押し付けてきこそしたもののそれ以外で強引に何かをされた記憶はなかった。
しかし言動がいつもより控えめなのは確かだ。夜だからか、祭りだからか、着飾っているからか。今という瞬間は普段の高校生活とは違う特別が多過ぎて、明確な答えはいくら推測してもわからない。そんな時間を、一緒に過ごすことができて本当によかった。

と、彼女の不自然な動きに気が付いた。歩き方が明らかにぎこちないのだ。


「おまえ歩き方変じゃないか?」
「…あー…」


ちらりと見上げてきたは苦笑いを浮かべ、少し固い顔をしていた。…まるで何か痛みに耐えているかのような。


「下駄擦れしちゃって…」
「…ああ」


俺が先に立ち止まり、すぐにも足を止めた。下駄を浮かせて右足を揺らしているのを見るとどうやら鼻緒の部分が擦れたようだ。下駄なんて早々に履くものではないし、靴擦れならぬ下駄擦れが起こっても仕方ないのだろう。咄嗟にここ周辺の地理を思い起こし、三分くらいで戻ってこれるな、と計算した。「ちょっとここで待ってろ」「え?」エナメルバッグを地面に置き、絶対動くなよと彼女に釘を差して駆け出した。

これだけでいいのか少し疑問だったが、取り敢えず思いついた物を一パックだけ買い同じ場所へ戻ると、彼女は言われた通り歩道の金網に寄り掛かって待っていた。すぐに俺に気付き背中を離したが、そのままでいいのにと思いながら駆け寄った。コンビニのビニール袋から今さっき買ったものを取り出す。


「絆創膏だけでよかったか?」
「え!ありがとう!お金、」
「いい。いらん」


意味を理解したらしいが巾着から財布を取り出そうとしたのを制した。んなかっこ悪いことさせんな馬鹿。でも、と見上げてくる彼女の困った顔を見下ろすと、その表情やら距離やらで不謹慎ながらも、あーーーと何もかも吐き出したい衝動に駆られた。まさかいきなりそんなことをするわけにはいかないのですぐに気を持ち直す。


「いいから、足出せ」
「え」
「貼ってやる。ここ座れる場所ないし。浴衣じゃ屈めないだろ」
「お、おう……」


俯いたが右の下駄を脱いだのを見てしゃがんだ。片足で立ち続けるのは辛いだろうと思い、曲げた太股に足を乗せろと言うと彼女はおとなしく従い俺のそれにおずおずと足を乗せた。の足は自分のそれよりも随分小さく、女だなと改めて認識させられた。予想通り親指とその隣の指が赤くなっていて、暗がりだからよくは見えないがおそらく皮も剥けている。一回洗った方がいいとは思うがここの近くで足を洗えるような場所はないので、足りないかもしれないが応急処置だけで我慢してもらうことにした。絆創膏を貼れば帰れるくらいには痛みは和らぐはずだ。
右を貼り終え、左足は、と聞く前にそちらも同じような状態であるのがすぐにわかったので、「次、左」と軽く向こう脛を叩いた。ごめんありがとうとの声が上から降ってきたがそれを受け取る資格は自分にはないだろう。思った通りこちらも皮が剥けていて酷く痛そうだった。


「すごい赤いけど大丈夫か?よく歩けたな」
「へへ…実はかなり痛かった」
「……悪い。気付くの遅くて」


実感する。自分が、いつもと違う時間を彼女と共有することに、酷く緊張してたのだと。彼女の存在を気配で確かめることに精一杯で、見ていればすぐにわかることなのにここまで気付かなかったのだ。これだけ酷くなっていたらもっと前の段階で気付けたはずだ。格好悪い。余裕がなかったのがバレバレだ。


「…いいのに。ゆりこちゃん優しいね」


降ってきた声は、一層穏やかな声音だった。俺は下を向いたままだったので表情はわからなかったがそれに少し驚いていると、それからふわりと、頭に感触が乗っかってきた。


(……は。)


間違いなくの手だった。俺の頭を五本の指先が撫でている。思いっきりフリーズしてしまった俺に気付かないのかは手を止めず、永遠とも思える十数秒間、頭を撫で続けた。最後に一度髪を梳いて手は離れたが、そのときには最早確かめなくてもわかるぐらいに俺の顔は真っ赤になっていた。首まで火照っているのがわかる。動悸が指先にも伝わってきていた。やばい。顔上げらんねえ。


「ゆりこちゃん髪の毛さらさらだね」
「………お、おう…」


そのあとなんとか会話を引き延ばしながら左足も絆創膏を貼ることに成功し、もうバレないだろうというところまで熱が引いたところで立ち上がった。下駄を履き直したは数回足をぱたぱたさせたあと、やはり見上げて「痛くない。ありがとう」と笑った。心臓がぎゅうっと縮まった。





それから無事駅に着き、改札前で立ち止まった俺はふと、これで彼女の大きなイベントは幕を閉じるのだ、と思った。俺だけが満足してしまって、肝心のはこの時間だけで果たして実りのある夏休みとすることができたのだろうか。構内の蛍光灯が明るい。彼女の顔がよく見えた。綺麗な浴衣を着て洒落た髪型をし、いつもはしない化粧を施したその姿を本当は黄瀬に見せたかったのではないか。自分のためだけに嫉妬心でを彼から隠したことが卑怯であるとわかっていたが、たとえ今時間が戻ったとしても、彼女を黄瀬に会わせようとは絶対に思えなかった。電光掲示板を見てあと三分だと言う彼女に、なあ、と呟く。


「今日祭りに黄瀬来てた、って言ったら、どうする」


懺悔のつもりだろうか。また自分の首を締めているように感じた。けれどは口を噤んだまま丸い目をぱちぱちと瞬かせ、それからふわりと笑ったのだった。「あら、見たかったなあ」


「でもゆりこちゃんと回れたの楽しかったから、いいやあ」


ほらそうやって幸せそうに笑うから。俺はおまえへの気持ちを抑えるので一杯になるんだ。何も失くしていないし傷ついてもいないのに心臓が痛い。おまえからいろいろ貰い過ぎて苦しい。

俺も、すごく楽しかった。おまえが初めて話し掛けてきた五月には微塵も想像できなかったよ、おまえと一緒にいるのがこんなに楽しくなるなんて。おまえにこんな左右されるようになるなんて、全然想像できなかった。


「じゃあね、ゆりこちゃん。本当にいろいろありがとう」
「…こちらこそ」


手を振り改札を通って行くの姿が見えなくなるまで見送った。明日起きたら今日のことは夢だったと思うかもしれない。いや今の時点で結構夢だった感がある。頬をつねるとちゃんと痛くて、ありがちなことをしている自分に少し笑えた。
ふと思い出し携帯を見てみると新着メールが一件届いていた。つい五分前の受信、送信者は小堀だった。花火を買ったから河原に集合とのことで、十分くらいで着くから先に始めていてくれと返信しポケットにしまった。

たった一時間半程度だったのに、本当にあらゆる出来事が思い出された。顔は沸いたように熱い。着く頃にはおさまっているように、ゆっくり行こう、と踵を返した。