森山に彼女ができた。そんな噂がバスケ部内でまことしやかに流れ始めたのは最高学年になって二ヶ月ほど経った六月の始めのことだった。噂といってもほんの一部、今のところ三年の間でしか囁かれていないそれは当事者が当事者なのもあり俄かに信じ難いものでもあった。たとえもし本当だとしても恋愛が禁止されているわけではないし、部活動に支障を来たしている様子もないので俺からとやかく言うつもりはない。部をまとめる主将である笠松はそもそもこの手の話題にはあまり興味がないのかこちらも口を出そうとしているようには見えなかった。もしかしたら何も知らないのかもしれない。

そうかそうか、彼女が出来たのか。一年の頃から女の子が大好きで、バスケをしているとき以外は大抵可愛い子を探しては逃がしていた森山が、ついに一人の女の子を手に入れたのか。とやかく言うつもりがないのは本当だけれど、話を聞いてみたいとは素直に思った。一体どんな子なのだろう。
そんなことを頭の片隅で考えて数日経ったある日の今日、レギュラーだけ午後練のメニューが大きく変わったことを伝えに森山のクラスに足を運んだ。メールで伝えることができれば楽だったのだが、たまたま今日は携帯を家に忘れてしまったのだ。昼休みを利用して二つ隣のクラスに向かい、確かあいつの席は列の最後尾だったな、とぼんやり思い出しながら後ろの入り口から顔を覗かせた。……ああいたいた、窓際なのか。本を読んでいるそいつを呼ぼうと名前の頭文字を声に出そうとした瞬間。


「ゆりこちゃん」
「……」
「ゆりこちゃんてば」
「……」
「ねえゆりこちゃん」
「……」


俺は口を開けたままその場で固まってしまった。窓際に一人座って読書をしている森山に、話し掛けている女子生徒がいたのだ。教室内は全体的にざわついて人の動きも忙しないので最初は気付かなかった。しかし彼女は間違いなく、前の椅子の背もたれに寄り掛かり一心に森山に向かって声を掛けている。……もしかして、あれが森山の彼女?


「ゆりこちゃん」


…でも、良く聞こえないが、ゆりこちゃんって呼んでないか?人違いだろうか。いやもろ森山目掛けて呼んでるし、まさかだよな。俺は少し気になったので当初の目的をひとまず置いて黙って見ていることにした。「ゆりこちゃんてば」「……」何度目かの彼女の呼び掛けで、今まで無視していた森山がついに本を閉じた。ていうかあいつ本とか読むんだな。初めて見た。


「毎度毎度言ってるがそのゆりこちゃんっていうのやめろ」
「そんなことよりゆりこちゃん」
「おい人の話を聞け」
「わたしの話を聞いてよ」
「……」


会話の内容まではよく聞き取れない。が、女子の前にしては珍しく顔をしかめている森山が更に眉間に皺を寄せたのは横顔からでもわかった。


「…なんだ」
「あれ小堀くんじゃない?」


途端、彼女がこちらに人差し指を向けたので驚いた。バッと顔を向けた森山にずっと見ていたことに対する気まずさを感じながら片手を挙げ挨拶をすると、彼は再び彼女へ向き直り「そういうことは早く言え!」とこれまた珍しく声を荒げたのち、こちらに歩み寄ってきた。


「お、おう森山、いきなり悪いな」
「いや。何か用か?」
「ああ、午後練のことで…」


用件を話したあと、了解、と簡潔に返事をした森山越しに見える女子生徒に目をやる。初めて見る顔ではないが、同じクラスになったことはないだろう。名前の見当もつかなかった。彼女は先程まで森山が読んでいたであろう本をパラパラとめくっていた。声が広がらないよう手を口元へ持っていき、さっきから気になっていたことを問うてみる。


「…あの子が彼女か?」
「は?どこをどう見たらそうなるんだ。ていうか何だその言い方、いつ俺が彼女出来たなんて言ったよ…!」
「あ、違うのか」


どうやら自虐させてしまったようだ。手で顔を隠し俯いてわなわなと震える森山に謝りつつ肩を叩き、おまえに彼女が出来たという噂が流れてるんだぞと教えてやると、またもや勢いよく顔を上げた。切れ長の目を一杯に開いて。本気で驚いてる。


「なんだそれは…」
「心当たりないのか。じゃあガセだったんだな」
「…ちくしょう本当だったらいいのに…彼女欲しい。可愛い彼女欲しい」


こういう話には正直な森山は本音を素直に零し再びうな垂れた。嘘をついているようには見えない。森山は本当に独り身のままなようだ。
しかし、と思う。火の無いところに煙は立たぬと言うからには、こいつにそれを匂わせる何かがあったということじゃないか?ふむ、と少し思案し、もう一度女子生徒を見やる。一番怪しいのはどう見ても彼女だ。


「森山、ならあの子は何なんだ?」


二年ちょい森山という男を見てきたが、女の子好きというレッテルに恥じない生き様を見せつけていたこいつは女子に対して万遍なく優しく接していた印象がある。もちろん森山にも好みがあるのでその中でもタイプの子には(ややおかしな方向に)態度を変えることはあったが、逆に女子をぞんざいに扱うこいつは初めて見た。しかもかなりハッキリと。「ああ…あいつね」森山がちらりと後ろを向いたときには彼女は既に本を置いていて外を眺めていた。


「いいか小堀、あいつはな、黄瀬目的で俺に近付いてきた最低な女だ」


そう断言した森山は目一杯顔をしかめていた。思わず「お、おお…」と後ずさりしてしまうくらいには気迫が籠もっていて驚いてしまった。彼の言ったことは四月頃によくあった話だったので詳しく聞かずともわかる。一年ルーキーである黄瀬に近付きたかったり黄瀬の情報が知りたかったり、そういう女子はたくさんいたがほとんど適当にあしらって終わっていた。最近では聞かなくなっていたから忘れていた。
森山に最低とまで言わしめるにはなかなかの根性がいるだろうに、彼女は一体何をしたのだろうか。今までそれ目的で近付いてきた女子たちに対してだって、こいつが何か文句を言っていたところなんて一度も見たことがないのに。とりあえず気迫負けしてなるほど、と頷いた俺を見た森山は腕を組み、ふんと鼻を鳴らした。


「そしてあいつは俺のタイプじゃない」
「……」


左手の親指で後ろを指す森山に、そうか、と相槌を打ち別れた。とどめを刺したらしい。多分森山の彼女疑惑はあの子から派生したのだろう。それをわかった上で彼はああ言ったのだ。なるほど。………。長年の勘だろうか、森山に少し違和感を感じた俺はそのまま教室に戻らず、席に戻っていくそいつを目で追ってみた。


「ゆりこちゃん面白い本読んでるね」
「おまえ勝手に見たのか」
「ナンパ50選。とても魅力的なタイトルだったから、つい」
「ついじゃない」


依然会話はしっかりとは聞き取れないが、違和感の正体はなんとなくわかったかもしれない。やはり火の無いところに煙は立たない。それにしてもあの子、大人しそうに見えるし、黄瀬をすきになるタイプにはあまり見えない。まあそういうのはよくわからないし誰が誰をすきになるかとかは本人の自由だしな、これこそ俺が口を出すとこじゃないだろう。


「怒らないでゆりこちゃん」
「……はあ」


あ、ゆりこちゃんが何なのか聞きそびれた。