09

 七月も下旬に入った今日この頃。ランク戦では先週初めて最下位を脱出し万歳三唱をした興奮も冷めやらぬまま、学校を終えたわたしは三輪くんと並んで彼の作戦室へと向かっていた。放課後チームメイトと次の試合の作戦を練る予定があるのだけど、終業時間が進学校とずれて時間が空いたのでついて行くことにしたのだ。
 今シーズンのランク戦は折り返し地点を越え、残りの試合数は十試合もないだろう。戦略的緊急脱出を駆使しながらちまちまと点を稼いでいたのが功を奏し、今は最下位と1ポイント差でブービーだ。次の試合でも組み合わせ的には一番下なので地形選択権があり、今度こそ市街地A以外の冒険もしてみようかと話していた。
 放課後の時間は本部も人通りが多い。まだ午後の日の高い時間ではあるけれど、ほとんどの学生が自由時間なのだ。今日まで平常日課の進学校と違い、普通校や市立中学は花の短縮日課である。定期テストが終わったら基本的にやることがなくなるのだ。


「明日で学校終わりだねー」
「そうだな」


 隣を歩く三輪くんは白いワイシャツを身にまとった青少年である。夏真っ盛りのこの時期、本部に来るまでも炎天下の道を歩いて来たはずなのにどこか涼しげだ。
 なんであれ、明後日から待ちに待った夏休みが始まるのでその喜びを分かち合おうとしたのだけれど、案の定三輪くんがはしゃぐなんてことはなく、淡々と相槌を返されるのみだった。


「これでランク戦に専念できると思ったけど、案の定宿題出たね」
「時間のかかるものじゃないだけマシだ」


 三輪くんの言う通り、確かに科目数もそんなに多くないし、ほとんどがどこかの問題集だか過去問から引っ張ってきたようなプリントばかりだ。なのでできる人はスラスラ解いてしまえるものなんだろう。でもわたしは得意不得意があるのでそうはいかない。特に数学が憂鬱だ。


「……あ、三輪くん、数学の宿題一緒にやろうよ!」
「一人でできるだろ」


 そんな教育番組みたいなこと言わなくても……!ぐっと唸る。できるできないは置いといて、みんなでやった方が絶対楽しいのに。クラスは違うけど出される宿題は同じだから米屋くんたちと四人で手分けしてやればすぐだ、きっと。あ、でも米屋くんわたしより点数悪かった気がするから戦力になるかは微妙だな。明日の終業式後、わたしと米屋くんには数学の補講が待ち受けているのだ。


「三輪くん、……?」


 補講のこと知ってるのかなと三輪くんを見上げる。と、そのタイミングで、正面を向く彼の眉間に皺が寄った。――え。つられて視線の先に目を向けると、本部では珍しい人物が歩いて来ていた。


「やー、お二人さん。ぼんち揚げ食う?」
「じっ……!」


 サッと素早く三輪くんの後ろに隠れる。それから肩口から顔を出し、目の前の迅さんをうかがう。「……?」突然の行動にやや驚き気味の三輪くんには申し訳ないけれど、今だけは許してほしい。


「あっはっは!大丈夫、もう触んないから」
「ほ、ほんとですか」
「ほんとほんと」
「おまえ何をされたんだ……?」


 訝しげにわたしを見遣る三輪くんには苦笑いで誤魔化す。男の三輪くんは知らないんだろう。この迅さんが、女の人のお尻を触るセクハラ人間であることを!
 去年初めて声を掛けられたとき、つるんとやられた。そのときは事故かなと思って気付かない振りをしたのだけれど、先月隊のみんなと偶然その話になったとき、彼の非行が明るみになったのだ。玉狛支部のS級隊員でエリートだとは聞いてたけど、まさかそんなことをする人だとは。以来わたしは、迅さんに対する警戒レベルを一番上まで引き上げているのだ。


「じ、迅さん珍しいですね本部に来るなんて」
「こっちに来てる林藤支部長にちょっと用があってね〜」
「へえー……」
「それにしても、お二人さんは相変わらず仲がいいね」


 その言葉に三輪くんがピクリと反応する。見上げると、わずかに見える彼の顔はしかめられていた。快く思っていない顔だ。そんな本人目の前で頷いていいものなのか。でも、この間話したときは割と好感触だったし……。
 迷いつつも、自信や誇示の欲求に逆らえず、こくりと頷いた。それを視界の隅で捉えたのだろう、三輪くんは少しだけこちらに目を向けた。迅さんが何かを悟ったように笑みを浮かべる。
 そういえば、初めて声をかけられたとき、迅さんは三輪くんの居場所を教えてくれたんだった。あのとき本当に彼を探していたから助かった。でも、当時わたしは訓練生だったし、迅さんのことは噂にしか聞いていなかったし、向こうもわたしのことなんて知らなかったはずだ。なのにわざわざ声をかけて助けてくれたのは、どうしてだろう。


「君たちは「不安定」で安定してるね」


 その言葉も、どういう意味だろう。
 何も返せないわたしたちに、迅さんはじゃあねと言って横を通り抜けていった。……迅さんって、不思議な人だ。半ば呆気にとられつつも、立ち止まったままの三輪くんを見上げる。


「……」


 三輪くんも、地面に目を落としたまま迅さんの真意を掴みあぐねているようだった。難しそうに眉間に皺を寄せる、その表情から彼の動揺が伝わってくる。


「……三輪くん」


 一歩踏み出し、覗き込む。具合のよくない顔だ。気持ち悪いものを溜め込んでいるような、とにかく早く楽にしてあげたいと思わせる顔。
 わたしは三輪くんの思ってることがわかるので、彼が迅さんを苦手にしていることがよくわかった。そして、迅さんの言いなりになりたくないと思っていることも。
 ぱちぱちと瞬きをする。それからすうっと息を吸う。深くは考えなかった。


「三輪くん、すきだ」


 二秒後、ようやく三輪くんの両目が見開かれた。今言われるとは、というよりは、わたしが三輪くんをすきだという可能性を微塵も考えてなかったって顔だ。やっぱり気付いてなかった。わたしに関心があると思ったのは勘違いだった。君、全然興味ないよ。
 それでも黙ろうとしなかったのは自分のためではない。三輪くんが口を開く前に続けてしまう。


「わたしの心の一部は三輪くんだから、三輪くんにとってのわたしもそうなってほしいって思ってたんだけど、」


(わたしは、三輪くんが言ってほしいことなら何だって言ってあげたい)本当だ。だから今こんなに捨て身になれている。助けられるだろうか。


「けど、いいよべつに。三輪くんにすきになってもらえなくても」


 こう言うことで迅さんの言いなりにならないことになっているかは、正確にはわからないけど。ただこのとき、なんとなく、三輪くんを助けるにはこうするしかないと思ったのだ。


「でも友達でいてね」


 ほんとはそんなの嫌だけど。