駆け足で執務室に戻るも副隊長の姿はなかった。明かりはすべて消えているのに窓は開けっぱなしで、吹き込む風が机の書類をめくり上げている。副隊長はもう帰られたのだろうか。それにしては、机の上が片付けられていない。筆も硯も使いっぱなしだ。
 自分の机にリサの本を裏向きにして置き、霊圧探査をしようとした瞬間、気配を感じた。振り返る。

 誰か立ってる。

 一瞬、知らない人だと思った。けれどよく目を凝らすと、それが副隊長であることに気が付いた。


「ふ――」


 歩み寄ろうとして、止まる。入り口に立つ副隊長に、思わず息を飲んだ。暗闇の中、うっすらと笑みを浮かべるその人が、恐ろしく感じたのだ。
 何を怖がることがあるのか、相手は副隊長だ。思いこもうとしても握った手が震えてならない。気付くと、全身が緊張していた。


「隊首会は終わったのかい?」
「はい……隊長は特務部隊として、現場に向かわれました…」
「そうか」


 無意識に後ずさりしていた。視界の端に、机に立てかけた自身の斬魄刀が映る。ほんの一瞬あれば掴める距離だ。


「ふ、副隊長は今までどちらに…」
「少し休憩をしていたんだ」
「そうですか…」


「顔色が悪いね。隊長を待つのは僕に任せて、くんは早く帰った方がいい」彼が一歩踏み出す、手が伸ばされる。

 反射的に斬魄刀を引っ掴み窓から飛び出していた。背後から追い立てられる感覚に支配されながら無我夢中で足を動かす。呼吸がうまくできない。足がもつれそう。すぐにあがる息に胸を押さえながら、依然身体中を覆い尽くす得体の知れない嫌な予感から逃げるように駆けていく。
 副隊長をこんな風に感じたのは初めてだ。圧があるとかじゃない。目の前の人物が、純粋に気味悪く感じた。人がいる。それはわかる。その上で、誰なのかわからなかった。目に写る姿と脳で認識する姿が違うような、わけのわからないブレが生じていた。伸ばされた手を見た瞬間ブレは最大になり、反射的に逃げてしまった。

 直感だけれど、確信せざるを得ない。あれは副隊長ではない。なぜなら副隊長はわたしに触ろうとしない。こんな緊急時に執務室を空けて休憩に行く人じゃない。そうでなくとも、誰に行き先を告げずいなくなる人じゃない。

 いや、もっというと副隊長は、隊首会を覗きに行くことを咎めない人だったか?

 だとすると、もしかしたらあの時点で偽物だったのかもしれない。副隊長を騙った誰かだ。同じ死神の仕業なのか。霊圧まで同じだった。並みの鬼道の腕ではない。本当の副隊長はどこに……。

 気付くと瀞霊廷と流魂街の境界線まで来ていた。自分が、無意識に隊長の霊圧を追って走っていたことに気付く。助けを求めていた。いや、隊長は特務の最中だ、迷惑はかけられない。肩で息をしながら、俯く。行っちゃ駄目だ、わかってる、でも、「何かあったら俺に言いに来い」……それが、今だと思うのは、正しい判断ではないのか。違うのかも。でも、取り残された孤独感と、今なお背後に迫る脅威が、自分本位であることを自覚しながらも、前に進むことを決めてしまった。





 森の中を駆けていくと隊長たちの姿が見えた。刀を抜きこちらに背を向け、何かを警戒するように構えている。相手は霊圧からして虚のようだ。それにしては濁っているというか、どこか違和感のある霊圧だった。何か特殊な能力を持つ虚なのかもしれない。斬魄刀に手を添えながら駆け寄る。


「隊長!」
「?! おまえなんで…!」


 振り返った隊長は驚愕した表情をしていた。自分が部外者なのは重々承知していたため、気まずさのあまり眉尻を下げる。「あの…」口を開きながら、ふと、隊長がひよ里を小脇に抱えているのに気付いた。意識がないのか、手足をだらんと垂らす彼女は傷だらけだった。辺りを見回すと、特務部隊に選ばれた四人と、地面に鬼道で拘束された虚が――。


「…え?」


 虚だと思っていた霊圧の正体は、九番隊の二人だった。緑色のふわふわの髪の毛が見える白らしき人物は五柱鉄貫の柱に押しつぶされ、六車隊長に見える人物は身体に巻きついた鎖を今にも引き千切ろうとしていた。あれは鬼道の鎖条鎖縛だ。まさか力技で破ろうとしているのか。
 予想外の事態に頭が回らない。倒れた体勢では顔がよく見えず、本当に白と六車隊長なのか判然としない。少なくとも、事態はまだ収束していないということは理解した。反射的に柄を押し上げる。


「来るぞ!」
「ちっ…、こいつ持って下がっとけ!」
「はっ…」


 隊長はひよ里をわたしへ預けるなり拘束を解いた六車隊長へ向かっていった。回らない頭のまま、戦闘から目を離さないよう後ろ足で後退する。両手で抱きかかえるひよ里の顔を覗き込むと、意識はかろうじてあるようで、苦しそうに呻いていた。よほど痛めつけられたのだろう、こんなに傷だらけになったひよ里は見たことがなかった。彼女の斬魄刀は腰に差さったままぶら下がっていたので、そのまま一緒に手で抱える。
 仮面をつけた六車隊長らしき人物は五名の実力者の攻撃を次から次へと跳ね返していた。信じがたいことに、戦力が拮抗しているのだ。依然落ち着かない心臓のまま、脳では自分のすべきことを考える。戦況によっては増援を呼びに走る。隊長格が手こずる相手にわたしが立ち向かってどうにかできる自信はない。必要とあらば刀を抜く気構えはあるけれど、それより役に立てることがある。

 空中からリサを地面に叩きつけたその人は留めと言わんばかりに追撃を仕掛ける。それを、鳳橋隊長が鬼道で気を逸らす。彼へと照準を変えた六車隊長を、有昭田副鬼道長による九十番台の縛道が捕えた。黒い帯のような物体が六車隊長を中心に十字に伸び、胴体に巻きつく。帯には板状の重りがいくつも落ち、重量に耐えきれず六車隊長も落下する。もう抵抗はなかった。

 四方に位置どっていた隊長達が近寄る。わたしもおそるおそる歩み寄る。先ほどからひよ里は強く咳き込みだし、仰向けで抱えられている体勢がつらそうだったので向き合うように抱え直した。今は顔が見えないため、ひよ里の容態がどうなのかわからない。もしかしたら肺や気管支を痛めているのかもしれない。


「ったく……おまえは何しに来てん」


 振り返った隊長は呆れた表情を隠さない。わたしも申し訳ない気持ちでいっぱいになる。やっぱり来ちゃいけなかった。でも来てしまった以上、力になりたい。なにより、ここに来た事情を耳に入れてもらいたい。肩をすくめながら、口を開く。


「実は、副隊長の様子がおかしくて…」
「…惣右介が?」


「げほッ…ごほッ」ひよ里が一層咳き込みだす。振動がわたしにも伝わってきて、痛々しい空咳に心配になる。背中をさするけれど楽になった様子はない。まるで肺の中の何かを吐き出そうとしているようにすら聞こえる。他の内臓まで痛めてしまったのかもしれない。


「ひよ里…」
「あー…惣右介の話はあとや。ハッチぃ、先こいつ治したってくれん?」


 有昭田副鬼道長へ治療を仰ぐ隊長から目を離し、ひよ里をうかがう。「…」荒い息と咳の合間に名前を呼ばれる。やっぱり吐きたいのかも。地面から浮いた状態じゃ吐きにくいかもしれないと思い、ゆっくりと地面に下ろす。そのままひよ里の前で膝をつき、彼女を覗き込む。脂汗を浮かべ目が虚ろだ。「吐いて大丈夫だよ」寄りかかるひよ里の腕を支えたまま片方の手で背中をさする。「………はな…」一層強く咳き込むひよ里。屈んで顔が見えなくなる。


「……離…れ…」


 ゴボッと、ひよ里の口から白い液体が出てくる。のは見えた。

 次の瞬間には鮮血が舞っていた。左肩から吹き出すそれが頬にまで付着する。しりもちをついた途端、胸から左肩にかけて強烈な痛みが走った。ブワッと総毛立つ。


「……!」


 咄嗟に胸を押さえる。すでに血まみれではあったけれど、わたしはこのとき、目の前の光景が信じられなくて、それにばかり意識がいっていた。


!」


 ひよ里の顔に仮面がついてる。さっきまでなかった、額に一本の角が生えた硬質な面だった。斬魄刀を右手に握り、仮面の下の双眸が黒ずんでいるように見える。彼女の喉から出ているとは到底思えない濁った咆哮に、その場の全員が戦慄する。


「ひよ里!!」
「ちィッ!どうなってんだよっ!!」


 隊長やリサたちがこちらへ駆け寄ってくるのがひよ里越しに見える。ひよ里、さっきまで抱きかかえていたのは間違いなくひよ里だ。けれど、今や刀を握る彼女の霊圧は虚のようで、六車隊長や白と似た波長を感じる。ということは、やっぱりあれは六車隊長と白なんだ。どくどくと血液が身体から流れ出るのを感じながら、ひどい絶望に襲われる。一体、ひよ里たちの身に何が起こったら、こんなことに……。

 途端、視界が真っ暗に狭まる。怪我で意識がぼんやりしてきたせいじゃない。辺り一面真っ暗なのだ。さっきまで目の前にいたひよ里の姿まで消えた。気配をうかがおうとしても何も拾えない。上がった呼吸を繰り返し警戒だけしていると、あちこちで隊長たちの呻き声が聞こえてきた。

 視界が戻るのとほとんど同時に、愛川隊長が背を斬られた。倒れ伏す愛川隊長。他の人たちも全員斬られ、地面に伏していた。「ぐっ…」隊長だけが意識があるようで、肘をついて起き上がろうとしている。
 息が上がる。目の前で愛川隊長を斬った人物は今もそこにいる。考えもしていなかった人物に頭がぐわんぐわんと回る。


「おまえ……東仙……!」


 隊長の驚愕の声。視界が霞む。九番隊席官が羽織る白い外套。常につけている面を外したその表情は険しく、本当はいつもそんな顔をしていたのかと思わせた。「なんでや……おまえ…拳西を…」九番隊、東仙五席。五番隊にも在籍していた、この人が六車隊長を、白を、みんなをこんな目に遭わせたのか。


「自分とこの隊長を……裏切ったんか…?!」

「裏切ってなどいませんよ」


 東仙五席の声ではなかった。それは耳によく馴染んだ、至極温厚、であるはずの声だった。東仙五席から、右方向、隊長の背後からゆっくりと近づいてくるその人へ目を向ける。


「彼は忠実だ。忠実に、僕の命に従ったに過ぎない」


 ――藍染副隊長。にわかに信じがたい人物の登場にいよいよ混乱を極める。心臓がむき出しになったんじゃないかと思うくらい、鼓動が全身に伝わる。血はどくどくと流れ出る。動揺と焦りと痛みとすべてがごちゃごちゃに混ざり合わさり、自分の身体がどこかに行ってしまいそうな感覚に陥る。


「どうか彼を責めないでやって下さいませんか――平子隊長」
「藍…染……」


 振り返った隊長の恨みのこもった声。ぼんやり狭まる視界が、ついに暗転する。


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