自ら仮面を外したリサが脱力し膝をつく。十字に切れ込みの入ったそれを地面に落とし倒れ込んだ彼女に駆け寄る。肩で息をする彼女はしかし、意識ははっきりしており、汗だくになりながらもわたしたちに支えられて立ち上がった。

 リサの内在闘争が終わり、今日で自分を除く八人の虚化制御が成功した。霊力を高めたり傷を癒したりしているうちに六車隊長のそれから随分時間が経っていたため、その間虚化制御済みの人たちは次の段階に進んでいた。虚化中、本人の霊圧や身体能力が飛躍的に向上することから、自らの意思で虚化し使いこなす訓練を始めたのだ。もともと浦原隊長の理論でも、死神の魂魄をより高次なものへと昇華させるための手段だったのだ。内なる虚を抑え込んで終わりではもったいない、わたしたちはこのあともやらなければならないことがあるのだ。次に藍染副隊長と相見えるとき、闘う手段は少しでも多い方がいい。トントン拍子でうまく行くわけじゃないけれど、修行中のみんなはやることを見つけたと言わんばかりに生き生きとしていた。


 とっぷり沈んだ真夜中、どうしても寝付けず起き上がる。三時間は横になっていたのに目が冴えてしまって駄目だった。うとうとすらできなくて疲れてきたので、第二班のひよ里が寝付いたのを見計らってこっそり部屋を出た。今日はリサも早くに床についている。女性陣三人の姿を後ろ目に、音を立てないよう襖を閉めた。
 夜間待機は虚化の暴走を警戒してのことなので、みんなが制御できてしまえば終わるのだろうか。各々がすきな時間に寝て起きれるのがいいと思うけど、どうなるかはわからない。そもそもおまえ、どの口で言ってるんだって感じだ。

 忍び足で廊下を歩いていると次第に息苦しくなる。気を張ってるからというのとは別に、プレッシャーがのしかかっている気がして。


「……」


 残るはわたし一人だ。ほかの人はもう虚化維持の訓練に入った。明日からリサも入るだろう。みんなは、焦らなくていい、自分のペースで修行しろと言ってくれている。でも、ここ数日感じていたことだけれど、わたし、このままだと一生内在闘争に踏み出せる気がしない。
 誰もいないのをいいことに空き部屋の前の縁側に腰掛ける。顔を上げると、結界越しの空が見えた。今日は満月だった。いつもより外が明るく感じるのは気のせいじゃなかった。
 みんなは、何をもって内なる虚に勝てるという確信を得るのだろう。どんなに修行をして霊力が高まってきても、内なる虚と対峙すると何もかも心許なくなって、外から仮面を割ってもらってようやく安堵する。精神世界は孤独だ。わたしと虚以外誰もいない。わたしの心の拠り所が一人もいない。





 反射的に振り向く。右手の外廊下から、隊長が歩いてきていた。満月の光でうっすらと影を作る彼は、足袋の足元ですたすたとこちらに歩み寄ってきた。鳳橋隊長の姿は見えない。遠くの広間の灯りは点いていない。いつもはこの時間、リサが寝室の警戒に当たっているから、その代わりでやってきたのだろうか。


「こんばんは…」
「こんばんは。やっぱし寝てへんかったな」


 バレてたのか。バツが悪くて目をそらす。膝の上で握り込んだ拳に視線を落とすと、隊長はすぐ近くまで来て立ち止まった。「隣ええか?」断るはずもなく、はいと頷くと、彼は同じように腰かけた。横目で盗み見ると、拳二つ分ほど空けた距離に座った隊長が月を見上げていた。
 不思議と、ここ最近彼に対して感じていた気まずさはなかった。隊長も、リラックスとまではいかずとも無理をしている様子はなく、うわべだけの笑顔を貼り付けてもいない。わたしも無理に大丈夫ぶらず、素直に隊長が隣にいることに安堵していた。……もしかしたら、お互い、気を遣い合っていたのかもしれないと、ふと思った。


「最近妙に浮かない顔しとるから気になっててん。まァ理由はわかってんけどな」
「すみません…」
「謝らんでええ。急がんと死ぬいうわけやないんや。ゆっくりやったらええ」
「……」
「…言うても、先歩いてる奴に言われたかて響かへんよなァ」


「俺こそすまんなァ。何て元気づけたらええかわからへんねん」頭をかき背筋を丸める隊長に力の抜けた笑みが零れる。励まそうとしてくれてるのは十分伝わっているし、実際励まされてる。今まで距離を取っていたのが何だったのかと思うくらい、隊長は隊長のままだった。


「ありがとうございます…できることならすぐにでもやりたいと思ってるんですが、踏み切れなくて」
「心の準備は万全にしとき。他の奴からも聞いてんねやろ?下手するとほんまに喰われるからなァ」


 冗談めかして言っているけれど、本当のことだ。白を除く七人は虚と時間との勝負だと言っていた。霊圧はこれ以上ないほど揺れ、魂魄の主導権の奪い合いになる。おそらく内在闘争の限界は六十分前後で、それを超えると極端に虚に近づき、死神として魂魄を取り戻すことが難しくなる。
 一番危なかったのはひよ里だ。ひよ里は七十分に到達する直前で内在闘争を終えた。霊圧はほとんど虚になっており、あとほんの少しでひよ里の霊圧が完全に消えてしまうところだった。ひよ里の動きが止まり、パラパラと虚の皮膚が剥がれていくのを目にしたときの安堵は八人の中で一番だった。
 今まで内在闘争を打ち克った人たちの体験談を事細かに聞き、何度も想像している。浦原隊長の計測によれば、わたしの霊力はぎりぎり足りてるらしい。虚化にも慣れてはきている。ただ、心も力も強い人たちでさえ手こずる内在闘争を、自分が勝ち切れる自信がなかった。


「俺が殺したる」


 見上げると、隊長がうっすらと笑みを浮かべ、わたしを見下ろしていた。


「万一おまえが虚になったら、絶対に俺が殺したる。そんで現世に生まれ変わったおまえをまた見つけたる。安心しい、さみしい思いはさせへん」


 目を細め、優しく笑う隊長。穏やかな声音だった。嘘や冗談ではないんだろう。可能かどうかは置いといて、隊長はわたしを見つけようとしてくれるんだろうと確信できた。
 またってどういう意味だろう、と思わなくもなかったけれど、言葉の綾だろう。深く突っ込むことはしなかった。大層なことを約束してくれた隊長に、思わず笑いが漏れる。


「どや、大船に乗ったつもりで内在闘争に挑めるやろ?」
「や、あんまり」
「オイ!」
「だって虚になりたくないからびびってるのであって…」
「ま、せやな」


 ケロッと手のひらを返したと思ったら、「内在闘争は一人や。俺も手助けでけへん」隊長は肩の力を抜き、はあ、と溜め息をついた。手助け、できるんだったら惜しまず助けてくれたんだろうなと思う。疑う余地もない。本当にありがたいな。すきだなこの人のこと。

 わたしのすきな人たちが、こんな状況でも変わらずその人のままでいてくれる。それがどれだけ幸せなことだろうと、考える。優しい顔で着々と裏切っていた藍染副隊長。一晩と熟考することなく虚として処分する決定を下した瀞霊廷。抱えきれないほど重苦しいのに、みんな変わらず、仲間想いの、誇り高き魂のままだった。


「…けどおまえは、そないビビらんでも大丈夫やと思うけどなァ」


 気付くと隊長が流し目でわたしを見下ろしていた。横顔が、ニヤッと笑う。わたしはというと、ぽかんと見上げ、それからへらっと笑ってしまった。根拠のない「大丈夫」にこんなに心が軽くなる。素晴らしいことこの上ない。


「ありがとうございます、たい、あっ……」
「…それも、が虚抑え込んだあと話そうな」


 隊長はそう言ってわたしの頭をわさわさと撫でた。それから、惜しむように指が髪の隙間を通り、離れる。「ほな、おやすみ」立ち上がり、口角をあげて笑う隊長を見上げる。


「おやすみなさい…」


 かろうじて返して、隊長が踵を返すのを見送る。しばらくボーッとしたのち我に返って、自分も寝室へ戻った。
 過剰反応したみたいに顔が赤くなっていた。その理由が、現世に来て初めて隊長が触ってくれたからだと気付いたのは、襖を閉じてからだった。舞い上がりそうになる心を抑え布団に潜り込んだけれど、まるで寝付けない。おかしいくらい嬉しかった。身体が自分のものじゃないみたいに、鼓動は速く、吐き出す息は熱く、目には涙が滲んだ。


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