浦原隊長が魂魄自殺を防ぐワクチンの精製に成功したのは、二つ目の拠点に移ってすぐのことだった。
 人を隠すには人の中とはよく言ったもので、前回より都会寄りの集落に移動したわたしたちは大勢の人間に溶け込みながら、以前より便利になった暮らしに早々に順応していた。心に巣食う焦りはあるものの、目新しい現世の街並みや文化は純粋に好奇心を駆られ、不安を頭の隅に追いやるように日々を過ごしていた、そんな折だった。

 六車隊長の魂魄の安定が測れたことに、一同胸をなでおろす。虚化の進行の先に魂魄の消滅があると聞いたときは危機感と恐怖しか感じなかったけれど、浦原隊長のおかげでそれは解消されたのだ。よかったねとそのとき隣にいたひよ里に言うと、彼女は腕を組んでフンと鼻を鳴らした。どうやら浦原隊長に素直にお礼を言うのは気恥ずかしいらしい。
 その後全員にワクチンが注入され、魂魄の安定化が確認された。現世に来たときから霊力を使わず平静を努めていたけれど、これでもう気にしないで大丈夫なのだろうか?疑問を先回りするように、浦原隊長が全員に向かって口を開く。


「このワクチンは魂魄自体の均衡を元に戻す作用はありますが、虚化の進行までは制御できません。いずれは以前のように、虚に自我を飲み込まれるでしょう」


 それを防ぐためには、魂魄内に混在する内なる虚を抑え込む必要があると言う。全員予感はあったらしく、動揺はなかった。すでにみんな虚を自分の内に認めていて、間近まで迫ってきていることを自覚していたのだ。

 虚化制御の訓練は浦原隊長と鬼道衆の二人により作られた地下の広大な空間で行われることになった。浦原隊長も虚化の抑え方については手探りだと述べ、発症したわたしたちの感覚が頼りだと続けた。
 九人各々の内なる虚への感覚をすり合わせながら、どのように抑え込むのがいいか話し合った結果、最終的には虚と真っ向勝負するしかないとの結論が出た。ただし、負けた場合内なる虚に呑まれて完全な虚になるだろうことを踏まえるとおいそれと実行には移せない。
 そのため、まず短い虚化を体感する訓練をすることにした。一人が虚に身体を明け渡し、虚化したその人の仮面をすぐさま割って強制的に解除する。それを繰り返すことで、虚化の感覚に慣れるのが目的だった。
 虚化した六車隊長とリサたちが交戦した夜のことを思い出すと、すぐに仮面を割ることができるのか不安はあった。けれど試しに一人を八人が取り囲んでみたところ、虚化直後は動きが鈍るのもあり思ったよりあっさり割ることができた。そのため、安全と効率を考え二つの組に分けた形で訓練することになった。

 虚化してすぐに割るので時間としてはほんの数秒だったけれど、これを繰り返していくうちに虚と自分の魂魄が馴染んでいくのがわかった。ただし油断すると本当に戻ってこれなくなりそうで、さらには霊力の消耗も激しい。わたしの場合一日に三回程度しか虚化できなかった。


「ローズ、最後行くで」
「ああ」


 リサの掛け声に頷く鳳橋隊長。とっくに虚化側としてはリタイアしていたわたしは、内なる虚を刺激しない範囲で受け手に回っていた。虚に対抗するには霊力の強さがものをいう。やはり元隊長は訓練の進みが早かった。
 肩で息をしながら汗をぬぐい、斬魄刀を構え直す。鳳橋隊長がすっと力を抜き、顔に虚の仮面が現れる。リサが踏み切り、始解した鉄漿蜻蛉を彼の顔面に突き立てた。
 ふと、視線を感じて振り返る。離れた場所では平子隊長、六車隊長、ひよ里、白の訓練が終わったところだった。時間的にも体力的にも今日はここまでなのだろう。四人で何か話しながらこちらへ歩いてくる。それをしばらく見つめたあと、リサたちへ向き直る。こちらの組も鳳橋隊長で最後だった。





 夜の十一時過ぎ、第二班のひよ里が寝付いたのを確認してから部屋を出た。斬魄刀と着替えの袴を抱きかかえ、外廊下をしずしずと歩く。
 自分の本来の起床時間まで、地下の訓練場へ行くつもりだった。訓練を始めて一週間、虚化への恐怖は徐々に薄れつつあるものの、最終的な到達目標である「精神世界での虚の制御」に辿り着ける気がまるでしなかった。そもそも霊力が全然足りてない。今はすぐ割って現実に回帰できるからいいものの、もし外的救助がなければすぐにでも呑み込まれそうだ。霊圧の高い隊長方は虚化の時間を伸ばしたいと言っていた。それはつまり、受け手側としても虚化の暴走を抑える時間が延びるということで、責任も重くなってくる。のんびりしていては駄目だというのがよくわかる。九人の中で圧倒的に弱いことはわかっていたけれど、こうも現実を突きつけられると焦らずにはいられない。
 だから少しでも訓練したかった。できれば誰にも迷惑をかけず一人で、霊力を高める修行をしたかった。見つからないよう人の気配に気を張り巡らせながら、廊下を忍び足で歩いていく。


「真子、元気かい?」


 ピタッと足を止める。この曲がり角を曲がってすぐの部屋から声が聞こえた。灯りは最低限の蝋燭の火だけらしく、ゆらゆらとほのかに揺れているのが障子越しに廊下に写る。
 この時間は第三班の平子隊長と鳳橋隊長とリサが警戒についている。今の声は鳳橋隊長だ。そして、台詞からして平子隊長もいる。心臓が大きく脈打つ。いい意味ではなく、居づらさからくるものだった。無意識に息を潜めていた。


「なんや、元気なさそうに見えるか?」


 二人の声だけが聞こえる。リサはいないのか、声は聞こえてこない。義骸の霊圧は探知できないため、部屋に何人いるのか、どの辺りにいるのかもわからなかった。


「無理してるように見えるよ。君、ここに来てからずっとそんな感じじゃない」
「はあ、べつに普通やねんけどなァ」
「…真子ってこの手の話題、絶対すっとぼけるよね」
「人聞き悪いな。俺はいつでも正直やで」


 一つも動けない。二人の声以外聞こえない廊下で、わたしの足はふわふわと浮いているようだった。身体が分散していくような心許なさの中、心臓の嫌な鼓動だけが繋ぎ止めていた。
 鳳橋隊長の台詞には同意できた。隊長が、現世に来てからずっと思いつめてるように見えていた。言動は普段通りヘラヘラしながらも冷静で、他の隊長たちと話し合ったり指示を出す姿には変わらず信頼を寄せていたけれど、ふとしたとき、彼の表情には自責の念がちらついていた。
「まあ、気持ちはわかるよ」やっぱり自分の部下のしたことに対する責任を感じているのだろうか。同じ隊長位に就いていた鳳橋隊長は同意を示した。


「こんな状況で自分のことだけでも手一杯なのに、大事な子まで巻き添えにしたとなったら、気負っても仕方ないよ」


 思わず息を吸い込み、そのまま止める。廊下の木の板を凝視したまま動けなかった。障子越しに写った蝋燭の火が、ゆらゆら揺れる。

 しばらくの沈黙ののち、「そらなァ…」隊長の返答は、しかしそれ以上紡がれることはなかった。


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