衝撃音にぼんやりと目を見開くと、視界いっぱいに灰色の物体が横たわっていた。それが虚の腕だと理解した瞬間、身体中の筋肉が硬直する。しかし巨大な腕は動き出すことなく、次の瞬間には霊子に分解され消滅していった。どうやら切り落とされたものだったらしい。今度は目の前に、一人の死神が降り立つ。


「起きた?」


 足を曲げてしゃがんだその人の、首から下が見える。近くにいすぎて頭を動かさずには顔が見えなかった。
「……」ふと、既視感を覚えた。前にもこんなことがあったような、気がする。いつだったっけ……誰かが、こんな風に目の前にいたような……。ガンガンと頭の裏を叩かれるような痛みが邪魔をして思い出せない。息を吸うのも頭に響くほどだった。


「三席さん?動けるん?」


 思い出すより先に市丸くんの声が脳に届いた。ああそうだ、市丸くん。市丸くんに状況を聞かないと。起き上がろうとするも、やっぱり手足に力が入らずまるで動けなかった。どのくらい気を失っていたのか、辺りは任務が終了したときよりずっと暗くなっていた。


「いち……」


 何とか声を絞り出すけれど、言葉が出ない。頭を強く打ったらしく、死覇装の肩口から袖まで血まみれなのがわかる。このままだとまずいというのが自分でもわかる。意識もはっきりとしている自信がない。今考えてることが果たして正常なのかわからない。脳内はずっとぐるぐる渦を巻いているようで、ともすれば気を失ってしまいそうだった。
「次から次へと湧いてきてん。なんでやろな」虚のことだろう、あの一体じゃなかったんだ。この状況はまずい。詳しく聞く余裕もなく、途切れ途切れになりながらも、市丸くんへ尸魂界に戻り増援要請するよう頼む。すると彼は、わざとらしく驚いたように語尾を上げた。


「ボクが?そらあかん。見捨てた思われたら台無しやもん」


 彼の顔は見えないものの声の調子は今も普段通りだ。緊迫した事態でも変わらない彼にここに来て疑念が湧いたけれど、朦朧とする頭では市丸くんの台詞について思慮する元気はなく、次の瞬間には、たしかにそうかも、と納得していた。けれど現実問題として、虚の霊圧は依然いくつも感じ取れ、さらにさっきのような霊圧を消せる虚が混ざっている可能性を考えると、いくら市丸くんといえど一人で相手するのは難しいと思わせた。


「三席さん、頭の血ィ結構出てんで。動けんのでしょ。増援より四番隊さん呼んだ方がええんとちゃう?」
「……」
「まあそれでも間に合わんと思うけど。ま、とりあえず、ボクの地獄蝶使ってええから、伝令はすきにし」
「……いちま、」


 市丸くんが呼んでほしい、伝えようと、震える手を市丸くんへ這うように伸ばす。けれど、彼は一度目を落としただけだった。
 何も言わず上空へ駆け上がる市丸くん。もはや思考する余裕もない。ちろちろと飛んできた地獄蝶が、だらしなく伸びて力尽きた手に止まる。

 浅い息を繰り返す。うねる脳内、朦朧とする意識の中、わたしはなぜか、さきほど市丸くんに感じた既視感の正体を考えていた。けれど目の前に誰もいない今、もはや感覚を思い出すことはできず、手がかりは何もなかった。
 でもきっと、市丸くんは関係ないんだろう。たぶん、全然違う。





 次に目が覚めたときには木の天井を見上げていた。寝台に仰向けに横たわり、清潔な掛け布団が首から下を覆っている。過去の記憶から、ここが総合救護詰所であることはすぐにわかった。……助かった。

 うっすらとした記憶ではあるものの、あのあと、四番隊の救護班と隊長が駆けつけてくれた、と思う。隊長の、わたしを呼ぶ声に安堵した記憶がある。気のせいかもしれない。わたしの願望が夢を見せただけかもしれない。そして、いざ助かってみれば、夢であってほしかった。安心から一転、背筋が凍っていくのがわかる。


「……やってしまった…」


 仰向けになったまま、両手で顔を覆う。やってしまった。ついにやらかした。消えたい。なかったことにしたい。こんなに過去に戻りたいと思ったのは死神人生初めてだ。
 だって完全な失態だ。どう考えてもやらかした。なに気を抜いてたんだ。標的倒して満足するって、どんな緊張感ない奴だよ。おまえが一番緊張感ない。というか標的の虚を倒したのも市丸くんだし、ほとんど何もしてないようなもんだ。任務成功に達成感すら覚えていたことが恥ずかしくて堪らない。穴に入って埋まりたい。しかも巨大虚に一発で伸されて足手まといだった。市丸くんは無事だろうか。市丸くんに謝りたい。謝って許されることじゃない。もはや彼に何か言う資格はなくなった。
 というか、色々な資格がなくなった。


「起きましたか、三席」
「! はい」


 部屋の入り口から覗いたのは四番隊の男性隊士だった。慌てて起き上がり、へこっと会釈する。知らない人だけど、優しそうだ。柔らかく笑うその人は、直後にとんでもないことを言いだすのだけれど。


「よかった。平子隊長がお見えですよ」


 自分でも驚くほどビクッと大げさに肩が跳ねた。急激に、心臓がぐるぐると気味の悪い巡回を始める。血の気が引き、指先がカタカタと震え出す。いっそ気を失いたかった。
 ほんとうに、隊長には、市丸くん以上に合わせる顔がない。


「調子はどうや?」
「……あ、あは…」


 しかし無情にも再会は避けられず、男性隊士のあとに続いて入り口から顔を覗かせる。無視という選択肢はハナからなく、引きつった笑みを浮かべるしかできない。笑う以外に何ができるのか、誰かに教えてもらいたかった。
 四番隊の方のテキパキとした手さばきで診察を受けるわたしを、隊長は寝台のそばの壁に寄りかかって見下ろしていた。執行待ちの罪人はこんな気分なのか。気が気じゃなく変な汗が止まらない。診察の結果に影響が出てしまうんじゃないかと不安になるほどだった。


「はい、問題ありません。退院は明日でよろしいですか?」
「は、はい、ありがとうございます」
「ではお大事に」
「おおきに」


 隊長に笑顔で会釈する四番隊の方が退室していくと、待ってましたと言わんばかりに沈黙と気まずさの大波が襲いかかる。どわっと流される自分を想像し、そのままどこか遠くに消えてしまいたかった。
 四番隊の方が診察のときに座っていた丸椅子に隊長が腰掛ける。わたしはもう、何を言われるのかと怖くて怖くて堪らなかった。指先は冷えきり、掛け布団を握り込んで白くなっていた。


「怪我はもう痛ないか?」
「は、はい」


 俯いたまま患部に手をやる。包帯で何重にも巻かれた後頭部には、さらに綿や何かで保護されていて傷口がどうなっているのかよくわからなかった。「……そか」隊長に見つめられているのを気配で感じながら、やはり気まずさは血液のように身体中に流れており、常に心臓を締めつける。とにかく、謝らないと……。


「あ、あの…すみませんでした…」
「何がや?」
「任務、失敗して…」
「べつに失敗してへんやろ。標的はちゃんと倒したゆうんはギンから聞いてんで」
「そのあとのが…」
「あれは……まあ原因不明やからまだ何とも言えへんけど。突然湧いて出てきた虚やろ。任務とは関係あらへん」


 手をひらひら振り、自分の太ももの上で頬杖をつく隊長。怒っている様子はなかった。と思ったけれど、隊長に本当に怒られたことがないのを思い出して、きっと怒ってても判別つかないんだと認識を改めた。
 だとしても、今の隊長は怒っていないと断言できた。いっそ怒ってほしかった。この役立たずめ足手まといめと、言われたらヘコむし傷つくけど、今は怒られたくて仕方なかった。


「湧いた虚もギンがほとんど倒しとったで。あいつほんま笑えるくらい強いな」
「……!」


 思わず息を飲み込む。怒らなくても言われた。思わぬ方向から殴られた錯覚を覚え、一瞬頭が真っ白になる。それから、そんな資格はないと我に返り、もっと言ってやれと心の中で野次る。結局誰がどう見ても役立たずで足手まといなのだ。本当に使えないなって、おまえなんてって、言われたらわたし、いよいよ泣いてしまう。

「た、隊長…」頭がぐらぐらする。さっきから涙を堪える目が痛い。言いたくなかった。けど、言わないでいられないでしょうよ。今回のことでよくわかってしまった。市丸くんの存在が何よりも明らかだった。


「三席は、市丸くんの方がいいと思います…」


 元よりわたしに三席は務まらないのだ。


23│top