無心で報告書の作成をしていると、隊長は午後になってようやく隊首会から戻ってきた。定例のそれに比べてかなり長時間だったなと思い、壁時計から目を離し彼を見遣る。


「おかえりなさい」
「ただいま。だけか?」
「はい」


 筆を置きながら頷く。副隊長は午後休暇を取っているため、執務室にはわたししかいなかった。そのことを伝えると、隊長はせやったなとやる気のない目のまま頭を掻いた。


「ほな飯食いに行こ。どうせまだやろ」
「あ、はい」


 二つ返事で了承する、が、いや待てよと思う。こういうのが隊長に対して気安いのだろうか。中途半端に上げた腰を、すとんとまた下ろす。


「あ?」
「あ、いえ…なんか隊長相手に気安いかなと思いまして」
「なんや今さら」


 怪訝に眉をひそめる隊長。気安かったことは否定しないらしい。「まあ、そうなんですけど」事実だからいいのだけど。
 思い返すと、三席になってからいろんな要因が積み重なり、早々に隊長に馴れ馴れしくなっていた。たかるわ文句言うわ非難するわ、部下としてあんまりな態度を日常的に取ってきた。最初の方は礼を尽くした態度を取っていたと思うのだけれど、気付けばこんな風になっていた。今までよく誰にも怒られなかったなといっそ感心してしまうほどだ。むしろ、よく隊長怒らないよなあ…。


「気安いも気高いも、俺が誘うてんねから遠慮しなや」
「そ、そうですか…?」


 呆れ顔のまま首を傾ける隊長に肩をすくめる。隊長は生意気な部下に腹が立ったりしないのだろうか。それこそ今さらではあるけれど、腹立てられたら嫌だなと思う。ちょっと傷つきそう。自業自得なんだけれど。
 ともかく隊長にご立腹の様子は見受けられないため、言葉通りに受け取って再度立ち上がる。入り口付近に立ったままだった隊長の元へ歩み寄ると、隊長は釈然としない表情でわたしを見ていた。


「なんで今さらそないなこと気にしてん。誰かに何か言われたか?」
「いえ、そういうわけではないんですけど…」


 二人で執務室を出る。たしかに隊長は顔が広くて友人も多いし、副隊長を連れてご飯にも行ってるみたいだから変なことでもないのか。隊長と気兼ねなくご飯に行ったり、休みの日に偶然会ったり、任務に関する進言をしたり、当然のように鍛錬の相手をしてもらえると思うことは、特別なことじゃないのかもしれない。というかそもそも、隊長自体が気安いんだもんなあ。「ええよ、俺堅苦しいの嫌いやし」前を向きながらそんな声が聞こえる。


「変な距離作らんといてや」


 随分と優しい声だった。そして切実にも聞こえた。思わず隣を見上げると、伏せ目で進行方向を向いている隊長の横顔だけが見える。いつものくせで、はあ、と曖昧な返事をしてしまったけれど、隊長の頼みは今後も応えようとし続けるだろうと直感した。
 ふと、流し目の視線と合う。何か言われるだろうかと構えると、隊長は「せや」と背筋を伸ばした。何か思いついたらしく打って変わって楽しそうな声音に嫌な予感を感じ取り顔を歪ませる。伸ばした背筋を丸め、わたしを覗き込む。


も俺のこと名前で呼んでくれてええんやで」
「はい?」
「ひよ里とか白もそうやろ」


 いきなり何を言いだすかと思えば。突拍子のない提案に脱力してしまう。


「いくらなんでも自分の隊長を名前呼びは…」
「いやそれこそひよ里や白みたァなもんやろ」


 たしかに。思ってたより身近に例がいたことに勢いを削がれてしまい反論できなかった。ぐうと口を噤む。これはいけると踏んだのか、「試しに呼んでみい。怒らへんから」と楽しげに強要する隊長。正確には、彼女たちとわたしを一緒くたにしてはいけない部分がいろいろあるんだけど、そこらへんは隊長にとって大した問題じゃないのかもしれない。ともかく今は一度お名前を呼んで差し上げないと気が済まなさそうなので、腹を括ろうと思う。
 俯き、一度頭の中で唱える。……。


「ハゲ真子」
「おいコラ変なモンくっつけんな!」


 素早いツッコミに思わず破顔してしまう。「あはは」「オマエなァ…」全然反省してないので、怒らせたかもというより先に愉快になってしまう。それに隊長ついさっき怒らないって言ったし。隊長は隊長で不服そうなもののそれ以上は言ってこず、はあ、とわざとらしい溜め息を吐くだけだった。わたしも、もう名前を呼ぶつもりはなかった。満面の笑みのまま見上げる。


「わたしずっと部下なんですよね、じゃあ隊長もずっと隊長ですね」


 言いながら、心はほかほかと温かくて気分がよかった。おまえはずっと俺の部下だから諦めろと、前に言ってもらった言葉が今は嬉しいと感じる。わたし結構五番隊がすきなんだな。


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