執務室の戸棚には湯呑みがしまってある。引き戸を滑らせると、大きさも形も異なる三つの湯呑みが手前に、奥には来客用に常備してあるそれが五つ、布巾の上に伏せて見えた。昨日わたしが片したまま、誰かが触った形跡はない。
 手前に並んだ湯呑みを右から一つ二つと取り、最後の三つ目を掴もうとして、手が止まった。ムッと口を尖らせ、引っ込める。だっていないんだものね。ちょっとした反抗のつもりで、急須と二つの湯呑みが乗ったお盆を持って離れる。執務室には急な来客に応接するため水道とガスが引かれており、お茶出しなど簡単なおもてなしができるようになっている。とはいえ、どこの隊舎も来客なんて関係なしにこの設備を活用していることだろう。言うまでもなく、自分たちのために、だ。
 この部屋には腰くらいの高さから天井近くまでの大きな窓が三つあるので、朝の時間なら灯りがなくとも十分な照度が保たれている。五番隊の三つの仕事机は外の日差しがたっぷり差し込む場所に配置されているので、この時期は暖かいし事務仕事もしやすい。環境的には文句なしの空間だった。
 急須で二つの湯呑みにお茶を淹れ、上官の仕事机へ運ぶ。わたしの朝の日課である。


「副隊長、どうぞ」
「ああ、いつもありがとう」


 整理整頓された机の中でも特に邪魔にならなさそうな右隅にそっと置く。顔を上げた副隊長は、いつも穏やかな笑みでお礼を言ってくれるのだ。つられるようにいいえと会釈して、もう一つの湯呑みを自分の机にトンと置く。お盆をさっさと流しの壁に立てかけ、着席。さあ今日も事務仕事頑張るぞ。ふんと意気込んで死覇装の袖を捲る。
 三席に昇格してからというものの、仕事といえばもっぱら事務仕事になった。もちろん死神の本分である魂魄の調整役として現世に向かうことはしばしばあるものの、本当にしばしばで、ほとんどが机仕事に成り代わっていた。下位席官だった三年前まで隊長や副隊長に伝達事項があるときのみ入室していたこの執務室も、おかげさまですっかり居慣れた空間になっていた。

 席に着いてまず目に入ったのが、机のど真ん中に積まれた書類の山だ。昨日の終業間際に大量に回ってきて、急ぎではないとのことだったので翌日に持ち越そうとそのままにして帰ったのを思い出す。今日も机に張り付きかなあと遠い目になりそうになるのを堪え、一枚手に取り目を通す。すぐに、あっと口を丸くする。

 そうだこれ、隊長の承認が必要なやつなんだ。

 忘れてた、昨日ちょっとやってこうかと思ったけど、一枚目から詰まったからやめたんだった。昨日は隊長も副隊長もいなかったから除くしかできない書類が結構あって、あんまり進まなかったんだよなあ。
 そこまで思い出して、ふと、昨日机に積んでおいた別の束がなくなっていることに気が付いた。その書類の束が、隊長か副隊長の確認が必要な内容だったことを思い出すのと、「そこにあった書類、僕の方で預からせてもらったよ」副隊長に声をかけられたのはほとんど同時だった。


「あっ、ありがとうございます、助かります」
「いいや。昨日はここを任せてしまって、一人で大変だったろう。お疲れ様」
「いえそんな」


 労いの言葉に背筋を正す。ほんとに気が回る人だなあ、すっかり関心してしまうよ。
 三年もやってて情けない話だけれど、実際、一人でここにいるのは結構心細かったのだ。特段大きな問題が起こらなかっただけよかった。いや、小部隊の任務で問題が起きたから現場確認と収拾のため隊長と副隊長が出向くことになったのだけれど。

 そう、隊長。ちらっと、わたしと副隊長の机の間に位置するそれを見遣る。これでもかというほどの空席っぷりは昨日の夜から変わっていない。始業時間はとっくのとうに過ぎてるにもかかわらずだ。眼差しで穴を空けても仕方ないのでさっさと手元の書類に戻す。溜め息をついてしまうのも無理ないでしょう。
 隊長が長期不在や就業不能の状態になるなどの非常時において、一時的に副隊長に決定権や裁量権が降りてくるという隊規は耳にしたことがある。実際、三年前に十二番隊の曳舟隊長が昇進されてから浦原隊長が着任されるまでの七日間ほど、ひよ里にそれがあったらしい。けど、まさかちょっと不在にしてるだけで藍染副隊長に降りてくるわけがないよなあ。


「副隊長、隊長はどちらに…」
「今朝一度顔を出してからすぐに出て行かれたよ」
「えっ、一回来てるんですか?」


 駄目元で聞いたのにまさか来ていたとは。反射的にまた彼の仕事机に目を遣ったけれど、やっぱり昨日出ていったまま少しも変わってないように見える。


「ああ。昨日の件で少し話をしていたんだ。くんが来る少し前までいたよ」
「何か急用でもあったんですか?休暇とは聞いてませんが…」
「さあ、どうだろう」


 副隊長は困り笑いで首を傾げた。それが何を意味するのかわかってしまったわたしは、あからさまに顔を歪める。


「……ただのサボりなんですね…」
「そうかもしれないね」


 副隊長は笑みを絶やさない。午後から任務で小部隊を任されているにもかかわらず上官の不在に文句一つ言わず黙々と仕事に取り組む副隊長と、朝ちょっと顔を出して消えた隊長。上官二人のちぐはぐ具合に気付いたのは三席になってからだった。前は隊長も副隊長も優しくて仕事ができてかっこいい印象だったのに、身近になった途端隊長に対して物申したいことが山ほどできてしまったよ。

 頬杖をつき、二枚目三枚目と目を通す。軒並み隊長の承認を求める内容だった。そもそも三席だけで片付けられる事務仕事なんてそう多くない。全体の業務量はそりゃあ多いけれど、任務が立て込みさえしなければ隊長と副隊長だけで回せなくもないと思う。だとしたらわざわざ三席の机なんて用意しなくていいんじゃないかと思うのだけど、この件については三年前隊長に軽く流されているので諦めている。九番隊もときどき上位席官に任せているらしいし、特別なことでもないのだ。

 とりあえずこの書類の山の仕分けを終わらせよう。自分で淹れたお茶を一口啜り、気合いを入れ直す。隊長の気配はちっとも感じられない。


1│top