目の前の男の威圧感に目を逸らさずにいられない。左下へと視界をシフトすると積み上がった書類の山が見える。今日はこれを全部片付けて夜からキャバッローネに行ってディーノさんと会合、そのあとはえっと、なんだっけなあ……。「シカトしてんじゃねーよ」ああ、と現実逃避もままならず意識は再び目の前の恐ろしい男へ強制的に戻される。今にも飛んできかねないナイフの存在を意識しながらおそるおそる彼を見上げる。目は合わない。けれどそれ以外の表情から機嫌がよろしくないのは容易にわかる。せめてここに誰かいれば、との弱腰姿勢はダメツナと呼ばれた学生時代から変わっていなかった。

 俺が十代目ボンゴレボスに就任して二年目、この攻防も通算何回目だろうか。


「な、何回も言ってるけど…」
「こっちも何回も言ってんだろ」


 う。言葉を詰まらせる。執務机を挟んで立つ彼の沸点まであと何度だろうか。ここに来るたび帰り際当てつけのように首スレスレを狙って投げ打つナイフのせいでこの部屋の壁に深い傷跡が残っているのは知っているだろう。毎回それを発見しては怒る獄寺くんに諌められたことがあるはずだ。それでもやめようとしないのは、この人が妥協を考えていないことの現れか。

 ボンゴレでありながら本部とは別の指揮系統に属す彼の部隊はこことは少し離れた場所に拠点がある。何か用があって互いの人間が行き来することはあれど、滅多なことではない。今日の彼も元はただ、こちらの依頼で遂行した任務の報告をしに来ただけだ。…だけなんだけど、彼の場合報告だけじゃ終わらない。

 そもそもなぜ暗殺部隊一の天才・ベルフェゴールが、ボスである俺の執務室に来ては自慢のナイフを当てつけて帰るのか、という理由は至ってシンプルだ。シンプルだが、すんなりとは頷けない頼みを持ちかけてくるのだ。


「いいっしょ、いい加減。ちょーだいよ」


 彼はうちの諜報員であるをヴァリアーに引き抜きたいのだという。


「……うちも人手不足だから」
「嘘つくなよ。の代わりの諜報員なんていくらでもいるじゃん」


 申し訳ないことにそれは彼の言う通りだった。俺なんかじゃ役不足なくらい大きな組織であるボンゴレは人材の豊富さも如実だ。諜報員として動いてくれるメンバーだけでも相当いるし、ほとんど全員が腕も立つ。能力だけを見て客観的に評価すれば、その通り「の代わりはいくらでもいる」と言えてしまうだろう。でももちろん、それで片付けてしまえる話ではない。ベルフェゴールにとってもそうだろう。だからこんな攻防が続いているのだ。


「でも俺にはいねーの」


「……」それは、なんとなくわかってるけど。この人がこっちの面倒くさい条件を飲んだり、ちゃんと俺の許可を得てから行動に移そうとするのは、がベルにとってのっぴきならない人だからなんだってことは、わかる。出会って割とすぐに打ち解けていた二人は傍から見ても仲良しで、彼が仕事以外でうちに来るときは大抵に会いに来ている。ベルフェゴールからへの好意は明らかだった。そのを、この人はそばに置いておきたいのだ。それは、わかる。
 でも簡単には頷けない。だって、なんせあのベルフェゴールだ。仕事での実力は信頼しているがプライベートまでそうかと言われたら残念ながら首を横に振る。見るからに飽きっぽいこの人は、すぐにを捨てるんじゃないか。…っていう…。


「はあ?そんなこと心配してんの?」
「そ、それだけじゃないよ。はうちにいてほしいし、そんな簡単には、」
「簡単じゃねーじゃん」


 確かにそうだけど……。ああ言えばこう返されの堂々めぐり、というよりなぜかこっちが劣勢だ。なんか、俺ものすごく押しに弱い奴みたいだ…。というかそもそも、好きだからって自分の部隊引き抜こうとするって、いかにもこの人らしいよな、……。


「……公私混同」
「はあ?」
「ぐ……わかった。じゃあが承諾したらいいよ」
「っしゃ!」


 その場でガッツポーズをしたベルフェゴールに苦笑いする。押し負けたと思いつつ、でもそろそろいいかなとも思ってるのも正直なところだった。二年粘り続けたのは俺じゃなくて、彼の方だ。素で喜びを表す彼を見て、今更、簡単には手放さないだろうという直感めいたものを感じた。


「で、どこ?」
「任務に行ってもらってるよ。もうすぐ帰ってくるんじゃ、」


 ないかな。最後まで言う前にベルが後ろを振り返る。俺もそこを覗いてみるが見えるのは開けっ放しのドアの向こうの壁だけで他には何もない。不思議に思った俺が声を掛ける前に、しかしベルは踵を返して部屋を出て行ったのだった。……そういうところは素直にすごいと思うよ。廊下から聞こえてきた声に、気の抜けた笑い声が漏れた。


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