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(あ、あれーー…)


 教室の席に座ったままわたしは呆然としていた。英語の先生の話なんてちっとも聞いてない。きっと先生に気付かれたら、いかにマヌケ面のが心ここに在らずなのかがわかってしまうだろう。
 開いてた口にハッとして噤む。背もたれに寄りかかってた背筋を丸め、肘も机についた。目だけで辺りをなんとなく見回して、誰とも合わなくてホッと胸をなでおろす。それから、溜め息だ。もちろんさっきのことを思い出して。

 なんか、すごくあっさり振られてしまった…。もはや記憶が定かじゃないけど、雅人くんに迷う気持ちがあったのかすらわからない。即答だったっけ。それくらい脈がないんじゃないかって思ってしまった。
 いやいや、そもそも、勢いで告白したけどあれ、よかったのかな。雅人くん相手じゃ隠しても無駄だし、何よりわたしはさっきあの瞬間、すきだと言いたかった。そこは間違いない、から……やっぱり、単に雅人くんに振られたという事実のみが残るのだ。それ以外に何もない。

 五限の授業が珍しく眠くないのに、わたしは両腕で頬杖をついて俯いてしまう。真っ白なノート。板書、は、どうでもいいや。今度摩子ちゃんに助けてもらおう。

 みごとに君の言う通りだよ、さすが雅人くんだ。思うとますます沁み込む。


 わたし雅人くんのことすきになったよ。


 もちろん彼のことは前からすきだったけど、前までのすきと今のすきが違うことはわかった。言われたからはっきりしたのかもしれない。もし言われなかったらあやふやのままだったかも。こんなあいまいな境界線でも、雅人くんにはわかったんでしょう。
 この話をしたのは誰だっけ。荒船くん?そうそ、ほらねえ、荒船くん、言ったでしょ。雅人くんちゃんと言ってくれるんだよ。わたしは信じてた。

 紙の上に水滴が落ちて、オレンジ色の絵の具を筆先でちょんとつくと淡くにじむ、それが今までの君への気持ちよ。そしてさらにその上から、赤の絵の具をちょんと。じわりと広がるその色は、君への愛情みたいね。

 わたしは泣きたいような笑い飛ばしたいような気持ちになって、俯いていた顔を両手で覆い隠した。

 誰かをそういう意味ですきになったことはもちろんある。小学生の頃には二、三人、すきになった人がいた。毎回嬉々として雅人くんに報告するんだけど、一ヶ月もすると首をひねるようになって、そう経たないうちにもうすきじゃないやと雅人くんに報告した。だってほんとにすきなのかわかんなくなって、もういいやって思ったのだ。他に楽しいことが多かったのがいけない。わたしは自分のことを隅々まで知りたいと思ってるけど、ついにわからず、よくわかんなくなっちゃったと投げ出す。そのたび雅人くんが興味なさそうにふーんあっそって言ってたのを覚えてる。
 それでも昔はまだマシだったのかもしれない。わたしは自分であの子のことすきかもって思って、自分でもうすきじゃないかもって判断できてた。今はというと、自分の感情は全部雅人くんに頼って、挙げ句の果てに彼じゃ感知しえないことまで聞いた。自分で考えることすら少なくなった。……。
 今さらハッとする。わたしとんでもないな。雅人くんもバカにしたくなるわ。感情がコロコロしてるって言われても仕方ない。

 それによく考えたら、わたし、雅人くんに嫌いとか言ったしね!都合よすぎるか!どういう風の吹き回しかって感じ!

 じゃあ、ええと、えーーっと……。

 これからどうしよう。



◇◇



 放課後、何となしに教室を出ると、丁度カバンを肩に掛けた雅人くんがB組の前を通った。それを目で追うと、彼も振り向く。やったこっち向いた、思って笑顔が浮かぶ。


「ま、」


 途端、向こうがゲッて顔したのは見間違いじゃない。

「………」わたしはびっくりして声が出なかった。呆然と立ち尽くす。追いかけることもできなかった。目が合った途端、すごく嫌な顔されたのだ。なんで?わたしが喜んだから?だとしたら、いくらなんでもひどくないか?


ちゃん?どうかした?」


 後ろから倫ちゃんに声を掛けられ、ぎゅるんっと振り返る。


「倫ちゃんっ!雅人くん今日仕事ある?!」





 あった。放課後入ってるって。なかったら引きずってでも直帰させて、ちゃんと話したかったのに。ああ、ほんと、間が悪いなあ…。一人の帰り道、はああと大きく溜め息をつく。今日はボーダーに行かないらしい摩子ちゃんと倫ちゃんにお買い物に行かないか誘われたけど、断ってしまった。テンションは底辺なのだ。わたしは今にでもこの気持ちを誰かにぶちまけたいって思ってるけど、こんな話をして摩子ちゃんたちのテンションまで下げるのはよくないと思った。二人には、わたしは雅人くんをすきになったよって早く言いたい。でもそれと同時に、さっき振られたんだけど、なんて言うのは嫌だ。だったらどうしたらいいのか。その答えはきっと、漠然と、一つしかないんだろう。

 うつむいて視界いっぱいのアスファルトにハッとして視線を上げる。すごい下向いて歩いてた、よくないよくない。
 と、向かいから見たことのある男の子。


「荒船くんだ」
「おー」


 前もここで会ったなあ。最初に思ったのがそれで、またプレゼントかな?となんとなく予想する。父の日、はまだ先だし、どちらかというと雅人くんのかな?そもそも雅人くんたちってプレゼント交換してるのかな?そう思ってると、穂刈くんと待ち合わせしてることを教えてくれた。そういえばさっき、廊下で雅人くんと歩いてたのは村上くんだった。


「加賀美は今日買い物行くっつってたけど、は行かなかったのか」
「う、うん」


 どもったのはそういう気分じゃなかったことを思い出してのことだったのだけど、荒船くんには顔を曇らせて「喧嘩か?」と問われてしまった。しかも相手先を最初勘違いして背筋が冷やっとした。ちょっと考えてから、ちがうよ!と否定する。びっくりした、雅人くんとって意味かと思った。まさかそんなはずがない。倫ちゃんたちと喧嘩する理由もない。そうか、と表情を和らげた彼を見上げる。そうして、わたしはなぜか、こないだ彼と雅人くん家のお好み焼き屋さんで話したことを思い出していた。


「……あ、荒船くん」
「あ?」
「前言ってたこと、わたし、雅人くんをすきになりそうに見えた?」


 あとで思うと話が急に飛びすぎた。意味不明だ。それに、覚えてるだろうか。言ってからこれじゃ伝わらないかもと慌てたけれど、荒船くんは一拍間を置いただけで言いたいことを汲んでくれたらしかった。「おお」


がすきになるとしたら、カゲだろうなとは思ってたぜ」


 大きく開いた目が、潤むようだった。荒船くんは口元に笑みを浮かべながら堂々と言いのけたのだ。……この人は、すごいなあ、わたしは全然予想できてなかったのに。


「だっておまえ、カゲには簡単に流されるからよ」


 その言葉に、わたしはいよいよ破顔した。満面の笑みを浮かべる。どうしてだかとっても嬉しくて、口は感謝の言葉を述べていた。ありがとう荒船くん。なんだかとっても、背中を押してもらった気分だよ。小首を傾げた荒船くんに、誓うように腕を軽く曲げ拳を二つ作る。


「わたし、前向きに頑張るよ!」


 察しのいい荒船くんはそれだけでわかったのだろう。切れ長の目を少し見開いてから、彼も嬉しそうに歯を見せて笑ったのだった。
 言葉は嘘じゃなかった。雅人くんに振られたって邪険にされたって、きっとわたしが出来ることもやりたいことも、それしかないんだと思う。

 そう……それにわたしは決して、悲観してるわけじゃないのだ。
 だって雅人くん、わたしのこと結構すきだもん!


「あっ、そういえば!」
「?」
「雅人くんのすきなタイプって、どんななの?」


 そんなことも荒船くん言ってたような。これまた今さら気になって聞いてみると、彼は少し考え込むそぶりを見せたあと、わたしの目をじっと見て言った。


「おとなしいやつだろ」


 真逆じゃないか!


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