10


 もう来週には六月になってしまうなんて、時の流れは早いなあ。こうやってあっという間に九月になって、十二月になって、それで三月、卒業してしまうのかもしれない。わたしはこの高校がすきなので、それは悲しいなあと思う。もっと心ゆくまで楽しみたい。一秒はぜんぶ同じなのに、楽しい時間と嫌な時間の感覚はまるで違うのだ。この謎が解明される日は来るのだろうか。
 そう考えると、と思い返してみる。おとといから時の流れはゆっくりかもしれない。

 雅人くんに避けられてるのだ。

 昨日あからさまに嫌そうな顔をされて、今日も朝、休み時間、お昼と校内で見かけるたび、彼はゲッて顔してそそくさと逃げるのだ。なんでさ。わたしはそのたび頬を膨らませるのだけど届いてないのか、雅人くんが何か言ってくることはなかった。その丸くなった背中を見てると、膨らませた頬も虚しくなって、立ち尽くしてしまう。さすがの鈍ちんなわたしだって察するよ。


「………」


 ちょっと絶望まがいの気持ちにもなるでしょうよ。知らなかった、雅人くん、嫌な相手に対してこんなに距離取ろうとするんだ。そんな自虐に気付いて心臓がじくじくと痛んだ。そういえば、雅人くんは喧嘩してるとき、わたしに近付こうとしない。つまり会いたくないと思ってるんだ。今だって、理由はわからないけど、とにかく雅人くんにとってわたしは避けたい対象なのだ。

 こういうのは嫌だ。もやもやする。心にのしかかったストレスを、早く解消したいと思う。そのためにわたしが思いつくことといったら一つしかなくて、しかもこれが一番手っ取り早いもんだから、性懲りもなく、帰宅するためC組の教室から出てきた彼のスクールバッグを引っ掴むのだ。わたしによる抵抗を受け、彼が立ち止まる。首だけ後ろを向く。


「……離せよ」
「……」


 低い声がわたしを諌めた。すきじゃない声だ。振り返った雅人くんは睨むように見下ろしている。いつもなら全然怖くないのに、今はまるで上下関係がある二人みたいに、わたしのほうは萎縮してしまう。なんでだ、わたし何も悪いことしてないのに。雅人くんもそんな責めるみたいに睨まないでよ、嫌だよ。


「なんでわたしのこと避けるの!」
「……おめーがトチ狂ったこと言ってっからだろ」


 その台詞に勢いよく顔を上げて目を合わせると雅人くんの眉がピクッと動いた。若干顔をしかめられる。快く思ってないのがよくわかった。でも今はわたしだって、君なんかに負けないほど気分はよくない。


「おめーがすきなのは荒船だろ。てきとうに変わってんじゃねえよ」


 わたしはこのとき、言うべき言葉が思い浮かばなかった。正確には言いたいことはたくさんあった。倫ちゃんや摩子ちゃんに言った言葉や、荒船くんに言った言葉を思い起こしていた。けれどたくさんありすぎて、結局口をついては何も出てこなかったのだ。大きく口を開けて、それからぎゅっと噤む。代わりに雅人くんのスクールバッグの持ち手を握る手に力をこめた。見上げてたはずの顔はうつむいていた。

 なんでよお、雅人くんが言ったんじゃん、わたしは間違いなく君に感情を刺したでしょう。ちゃんとすきだよ、何もトチ狂ってない。雅人くんがこんなわからず屋だったなんて思ってもみなかった。いつの間にかわたしの指針になってくれてた彼は、今、わたしの感情を頑なに認めようとしない。雅人くんに認められなかったらこの気持ちはどこに行けばいいんだよ。すきなの荒船だろって、荒船くんは友達だし、彼はもうわたしが雅人くんをすきだってこと知ってるよ。応援だってしてくれたし、雅人くんのすきなタイプだって教えて、くれ…………。


「……」


 言いたいことはたくさんあった。ほとんど雅人くんへの不満だった。全部言おうとした、けれど口は薄く開くだけで、静かに息を吐くためだけに留めた。……わたしの、こういうとこがダメなのかもしれない。我慢できなくてそのまま口に出すとこ。もっとおとなしい子にならないと。


「わかったー」


 手を離して、パッと顔を上げる。下手くそだけど笑顔も浮かべた。本音を隠すことはとってもつらかったけど、必要なことなんだと頑張った。このままじゃわたし、いけないんだもの。


「ごめんねー、引き止めて」


 雅人くんの目が見開かれる。あ、と思うと同時に、彼の右手が伸びてきて両頬を挟まれた。口は覆われしゃべれなくなる。いいやでも、たとえそうでなくとも、わたしはこのときとってもびっくりしていたので、どのみちしゃべれなかったと思う。
 雅人くんのまるで傷ついたような、悲痛な表情が衝撃的だったのだ。


「てめーの唯一いいとこは、建前がねえとこだろーが!!」


 そう怒鳴られて、自分の心臓がバクバクと鳴ってることに気付く。きっといい意味じゃなかった。頭が、何か考える前に、目の奥が痛みだす。眼球が熱くなってじわりと涙がにじんだ。覆われた口で不自由に息を吸う。こらえようと眉間に力を入れたけれど意味なくて、こぼれた涙は頬を伝って雅人くんの手を濡らした。彼はまだつらそうな顔のまま歯を食いしばったけれど、まるで睨みつけてるみたいなわたしからゆっくりと手を離した。


「……だって!わたしも雅人くんにすかれたいんだもん…!」


 涙は止まらない。嗚咽を漏らしながら指で拭うのを、雅人くんは余計に、何かをこらえるように顔をしかめて見ていた。

 それからすぐに通りがかった友達がわたしへ「どうしたの?」と声をかけたのをきっかけに、雅人くんは踵を返して階段のほうへ行ってしまった。放課後の時間の廊下だから人はそこそこいたのだ。わたしたちのやりとりを通りすがりに見ていた人もいたのだろう。心配するように背中をさすられながら、わたしはまだぼろぼろ涙を流して滲む視界で、雅人くんの背中を追っていたのだった。彼の両の手は、制服のポケットに突っ込まれて見えなかった。

 いっそ雅人くんの右手を噛んでしまえばよかったのかもしれない。そうしたらわたしが噛んだって話が流れて、雅人くんも冤罪を免れた。もう君が罪悪感を感じて気に病むこともない。あえて疑いの目を向けられずに済む。君は晴れて自由の身になって、わたしのことなんてすっかり忘れて、もはやすきでも嫌いでもなくなるのだ。雅人くんはわたしに無関心になる。なんて最悪な世界だろう。

 そんな未来をちょっと想像して、わたしは余計に涙が止まらなくなる。


top