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 あの雅人くんが言うんだからわたしは荒船くんのことがすきなのかもしれない。自分じゃ気付いてないだけで、わたしはいつの間にか、彼にひかれていたのかも。一緒にいると幸せだとか、離れるとさみしくなったり、誰か女の子といたら嫉妬するし、嫉妬してほしい、そういうことを、思ってるのかもしれない。
 と恋愛ドラマを観ながら思い込んでみるもあんまりしっくり来ないのが本音だったけど、雅人くんが言ってたんだし、と思い直す。でも…との堂々巡りを何順かして、あっという間に経っていた一週間。この日は朝から慌ただしかった。


「雅人くんがわたしを噛んだ?」


 突拍子もない話題に目を丸くしてしまう。登校して早々、摩子ちゃんにそんな話を振られては驚くのも無理ないだろう。当の彼女といえば、さっきクラスの子から聞いただけなんだけど、と本気にはしてないみたいに息をひとつ吐いていた。ホームルームの予鈴まであと五分といったところだった。

 詳しく聞いてみると、どうやら雅人くんがわたしを噛んだことがあるという噂が流れてるらしい。あの影浦くんならあり得る、凶暴で怖いし、みたいなイメージを根拠にその噂話はヒョロヒョロと出歩きにわかに伝播してるんだそうだ。よっぽど大半の人が雅人くんの見た目や言動からそういう暴行を致してもおかしくないと思ってるのか、疑る人はここに来てようやく現れたといったところだろうか。摩子ちゃんがわたしに確認を取らなかったら拡大の一途をたどっていたと思う。「へえー…」しかしまさか、自分の知らないところでそんなことになっていたとはなあ。思ってとても間抜けた感嘆を吐いてしまう。


「でも、の反応的にやっぱりデマだったのね」
「うん」


 頷いて肯定する。わたしの記憶によると、雅人くんに噛まれたことは一度もないと断言できた。噛まれてたらひとたまりもないだろう、想像してちょっと笑っちゃいそうだ。摩子ちゃんが呆れたようなホッとしたような表情を浮かべたので、優しい人だなあと何度目かの感想を心の中で唱えた。摩子ちゃんにとって雅人くんは同級生で、ボーダーの仲間だ。それにわたしのことを案じる気持ちもあったのかもしれない。
 そう思うと、ちょっと申し訳ないかも?噂が流れる理由には心当たりがあるのだ。フンと胸を張る。


「だって噛みついたのはわたしだもん」


「はい?!」彼女の素っ頓狂なリアクションを見たのはこれが初めてだった。いよいよ面白くて口を開けて笑ってしまう。

 そう、噛んだのだ。わたしが、雅人くんを。わたしと雅人くんは昔から仲が良かったけど、喧嘩をするときは本気の本気で相手に挑む。18を控えた今となってはまだ落ち着いてきたけど、ちょっと前までは喧嘩になると口での言い合いもほどほどにすぐ取っ組み合いに発展する、かっこよくいうと血なまぐさいことになるのだ。

 噂の根源は中三の春休みの一件だろう。高校を控えたあの頃、雅人くんがボーダーに入ろうとしてるという話を聞きつけたわたしが、危ないからやめなよ!と部屋に乗り込んだのだ。なのに雅人くん、まるで聞く耳持たないで、テメーは関係ねーだろとか何とか言ってきた。絶対ダメ、死んじゃったらどうするの、とか色々主張したけど水掛け論で、最終的には雅人くんの部屋で取っ組み合いの喧嘩に発展した。危ないって心配があったのも本当だけど、何より一番の友達がボーダーなんてとこに入っちゃったら忙しくて遊べなくなる。だからダメ、ってことも言ったのに雅人くんには響かず、彼は黙れもう帰れとわたしの頬を片手で挟むように口を覆ってドアへ押しやった。その雅人くんの手の、親指と人差し指の間、いわゆる水かき部分を、わたしはこれでもかってくらい思いっきり噛んだのだ。


「だってすごく腹が立ったんだもん。やり返さなきゃ気が済まなかった!」


 結果的に、ボーダーの仕事は危ないなんて心配はなかった。でも雅人くんは今じゃボーダーに入り浸るほど楽しんでるみたいだから、わたしの遊び友達が減ったのはどんぴしゃりだったけど。いきさつを話し終えると摩子ちゃんは、あからさまに溜め息をついたようだった。


「前から思ってたけど、って我慢するの苦手よね」


 間髪入れず頷く。そうわたしは我慢ということが昔からすごく下手だった。



◇◇



 よくよく考えると雅人くんへの風評被害甚だしいな。摩子ちゃんの言うことが正しかったら、雅人くんはここ最近、いわれのないことで周りから無駄に引かれたり怖がられたりしてるのだ。きっと気分は最悪だっただろう。本当ならそれらの視線はわたしが被るべきことだったのに。それに多分わたしなら、周りからそう思われてるってずっと気付かないだろうから全然楽だった。誰がどう思ってるとかよくわかんないから、雅人くんみたいに感情の機微は察せないから、だから……、さすがに悪いと思ってるんだよ。

 昼休みの廊下で見つける。今日はボーダーの仕事があるから午後から学校に来るって知ってた。一緒に歩いてた北添くんが、B組の教室に入っていった。
 先週の日曜は結局、雅人くん家に遊びには行かなかった。あの夜突き放された衝撃にわたしの心はまだ持ち直せてなかったのだ。言いたいことも聞きたいこともあった気がするけど家でおとなしくしてた。もちろん雅人くんから何か言ってくることはなくて、それに余計虚しさとか苛立ちが募ったけれど、今はもうどうでもよかった。今は、ある感情に支配されてることが自覚できていた。
 一人になってこちらに向かってくる彼を、呼ぶ、前に気付かれる。いつものことだ。だからわたしは口を閉じて、訝るように眉をひそめる彼がわたしの前で立ち止まるのを待つ。


「なんだよ」
「ごめんね」
「だからなんだっつってんだよ」


 ぐうと下唇を噛む。雅人くんに不満があるからじゃない。自分が情けないからだ。わたしがまぎれもなく申し訳ないと思ってることは、わかってるんだろう。雅人くんは相変わらず悪い目つきでわたしを見下ろす。心当たりがないんだ、雅人くんの中では。わたしが君に対して謝った理由が。
 雅人くんは結果だけでは満足しない男だ。詳細を求める。結果は口にするまでもないからだ。雅人くんは誰より最速で結果を受け取ってしまう。だから理由を語らなければいけない。じっと合わせてた目を伏せる。雅人くんの右手に、手を伸ばす。


「わたしが噛んだのに」


 触れる前にピクッと反応した雅人くんが、おもむろにそれを制服のポケットに隠してしまう。黒いスラックスに消えた右手。わたしの一言で察した雅人くんは、ああそのことか、と呟きながらそっぽを向いた。行き場をなくしたわたしの手は、自分のスカートをぎゅうと握る。


「べつに気にしてねーよ」
「……でもそのせいで雅人くん悪い目にあってる」
「あってたとしてもおめーのせいとは思ってねーわ」


「なんで?」まるで腹を立てる気配のない雅人くんに疑問が湧く。わたしはとても申し訳ないと思ってる。雅人くんの不思議な体質は周りの人の感情がチクチク刺さるという。よくない感情はいい感情より不快に感じるってことも知ってる。だから雅人くんは、あいつがを噛んだんだって、とか、怖いよなあ、とか、まあ影浦だしな、とか思われながら見られてる。具体的にどういう具合で刺さるのか、わたしにはわからないけど、でも嫌なはずだ。むかついて殴りたくなるくらいかもしれない。だから雅人くんは、その矛先をわたしに向けて、おまえのせいだって怒ってくれていい、んだから!


「やり返していいよ!」
「はあ?」
「怒んないから!」
「やんねーよ」
「いいって!」
「やんねーっつってんだろ!」
「お願い!ねえー!」


 このままじゃわたしの気が済まない!わっと雅人くんの両腕に掴みかかると雅人くんはうわっと本気で振り払おうとする。負けじと右腕にしがみついてぶんぶん振って催促する。お願いお願い、と騒ぐわたしの声が大きかったのか周りの視線が集中し(というのはあとで考えてわかった)、その視線が嫌だったのだろう、雅人くんはおとなしくなったと思ったら顔をしかめて、はあーと大きく息を吐いたのだった。


「やりゃーいいんだろ」


 その声にパッと手を離し爛々と見上げる。背筋も伸ばした。やった、やり返してくれるんだ!どうぞどうぞと言わんばかりに両の手のひらを差し出す。これでおあいこだね、わたし、三年前の清算がようやくできるんだ。心の中で喜ぶわたしを見下ろして、雅人くんの両手が伸びてくる。顔へ。「え、」


「うえ〜〜〜」
「……」


 なんと、ほっぺを引っ張られたではないか。みょいーんと引っ張られてる。「あしゃとくう、」横に伸びた口では名前も満足に呼べない。雅人くんはただただ無言で伸ばし続け、しばらくしてからパッと手を離した。


「これで満足かよ」


 雅人くんの両手はまたポケットへ隠れて、わたしの両手はほっぺを押さえる。「……うん…?」君こそ、こんなんで、いいのか、雅人くん。全然痛くなかったよ。まえ喧嘩したときより全然、力入れてなかったでしょ。いいの、こんなんで、許しちゃうの、ねえ。


「そもそも怒ってねーんだよ」


 がしがしと後頭部を掻きながら、近くでわたしたちを見ていた生徒をひと睨みした雅人くん。周りから人が静かに引いていく。そそくさと自分の教室に戻っていくようだ。
 雅人くんのその気持ちはちっとも理解できなかった。わたしだったら、多分怒るよ。だってあのあと、高校の入学式にも歯型が消えなくて、雅人くんそれ隠すために式中でも教室でもずっとポケットに両手入れてたから、第一印象、態度悪い不良少年みたいに周りから思われちゃってたじゃん、わたし知ってるよ。たとえそれが、バサバサの黒髪とか怖い人相とかも要因だったとしても、ポケットから手を出さないってだけで周りの人たちはより怖いと思うんだよ。

 それなのに雅人くん、なんでわたしのこと怒んないの。


「おめーも嫌だと思ってたんだろ」
「……?」
「俺が遊んでやれなくなって」


 ハッと息を吸い込んだ。
 わたしの一番の友達。大事な幼なじみ。中学まで、遊び相手にはほとんど毎回雅人くんがいた。その雅人くんはボーダーに行ってしまって、わたしの遊び相手が一人減った。嫌だった。すごく嫌だったし、雅人くんにもそれは伝えた。けどまさか、雅人くんが、それを申し訳ないと思ってたなんて。


「これでおあいこでいーわ」


「じゃーな」そう言って、横を通り抜けていく雅人くん。もう周りには誰もいなかった。もちろん辺りを気にする余裕が生まれたのはしばらくしたあとだった。このときのわたしは、言葉では言い表せないような感慨に心を満たしていて、静かに息をするので精一杯だった。

 三年前の清算を、したかったのは、わたしだけじゃなかった。

 雅人くんはわたしをほっぽってボーダーに入ったことを、遊び相手がいなくなったことを、悪いと思ってた。ずっと思ってたのかもしれない。思えば雅人くんは家にいるか聞いたとき一度も居留守を使ったことがなかった。放課後わたしが誘ったら嫌々ながら毎回相手してくれたし、押しかけても追い返したりしなかった。雅人くんなりに、わたしの遊び相手になってくれてたんだ。

 引っ張られたのとは別に、頬がじんわりと熱を持つ。目が潤む。


 ……やさしい、なあ…。


 雅人くんなりに悪いと思ってたから、あの喧嘩が原因で流れた噂の迷惑を被っても黙って受け入れてたんだ。本当のことを周りが知ったら、きっとわたしを見る目が厳しいものになる。それを防いで、自分が、つらい目にあう。雅人くん、これはわたしの自意識過剰だろうか。

 そうだとしても、わたし今、とっても、……いままで思ったことないような気持ちになってる。こういうの何て言うんだろう。

 雅人くんに振り返る。わたしと雅人くんの間には誰もいなかった。すぐに姿を捉えられた。
 その後ろ姿がピクッと反応したと思ったら、立ち止まった。バッと雅人くんが振り向く。驚いたような顔が見えた。どうしたんだろう、頬から手のひらを離して、首を傾げる。雅人くんは眉をひそめて一度横に目を逸らしたあと、その文句ありげな表情のまま、わたしを見た。


「……おめー、すきみてーだぞ」


 思いもよらぬ一言。心で弾けた。「そうかも!」


「雅人くんのことすきだ!」


 この気持ちの正体は恋で間違いない。雅人くんが言うんだから間違いない。世紀の大発見と言わんばかりに目を輝かせて言い切ったわたし。それに対して目を瞠る雅人くん。自分で言っといて、なにびっくりしてるの!


「雅人くんは?」


 少し駆け寄って、雅人くんを見上げる。わたしはできることならぴょんぴょん飛び跳ねたいくらい興奮してて、たぶん雅人くんの表情が、もう少し明るかったら飛び跳ねてたんだろうけど、


「……いや、ねーわ」
「?!」


 結局わたしの足は、それから雅人くんが自分のクラスに戻ってしまうまで、地べたにぺったりくっついたままだった。


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