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 雅人くんが高校入学と同時期にボーダーに入ってから、わたしは遊び友達を一人なくしている。中学まで休みの日のほとんどを一緒に過ごしてたのに、幼なじみの彼はそれ以降自由時間の大半をボーダーの基地で過ごすようになったのだ。高校生という新しい環境になった節目だったのもあるけど、最初の頃は遊び相手がいなくて随分と暇を持て余したものだ。なにせ、雅人くんに会いに行っても家にいないんだもの。無駄骨が嫌だから、携帯を駆使して事前に確認する習慣ができた。[今日いる?]そんな簡潔な質問を挟まずには、もう雅人くんに会いに行くためだけに影浦家に足を運ぶことはなくなった。


 そういえば、あのときも大げんかしたなあ。


 今、わたしの手には携帯が握られている。メッセージのやりとりをする画面には、[いる]との返事が表示されてた。そして目の前には、雅人くん家のお好み焼き屋さん。

 もちろん目的は夕食じゃない。さすがに二日連続でお好み焼きは食べないよ。そう、今日は、雅人くんに会いに来たのだ。
 お店の脇の玄関から入り、階段を上って二階の彼の部屋へ行く。ドアの足元からもれる明かりが、部屋の主の存在を保証してくれていた。手の甲の関節でコンコンと叩く。「雅人くん」呼ぶとドアの向こうの空間で、気配が動いた。それだけでわたしはもう何も遠慮しないで、ドアノブを押してしまうのだ。

 雅人くんはベッドに腰掛けていた。南向きの窓に沿って置かれたその上に、今すぐ潜り込めそうなくらいちゃんと整えられた掛け布団。二週間前に来たときにあった毛布はもう片付けたらしい。多分さっきまで布団の上で寝転がってたんだろうなと思う。

 制服のワイシャツとジャージ姿の雅人くんは座ったまま、前髪の間からギラッと夜を思わせる眼球をわたしに向けた。でも残念ながら、彼が何を思ってるかはわからない。わたしは雅人くんじゃない。


「もう怒ってないよっ」


 背筋を伸ばしてパンッと弾ける声にしたら、雅人くんはすっと眉をひそめた。最初からべつに、威嚇されてるわけじゃないってことはわかってたんだけど。まるで疑るような目つきの彼が不可解で言ってあげたのだけど、無駄だったようだ。雅人くんはまるで呆れたようにハアと、溜め息をついた。


「言わなくてもわかるわ」


 目をつむって頬あたりをガシガシと掻く仕草はかわいいと思う。「…なんだよオイ」ああやばい。逃げるみたいにサッと逸せばこっちの勝ちだ。


「なんでもないよー」
「ごまかすならもっとうまくやれや。バレバレだっつの」
「わははは」


 楽しくて笑ってしまうと雅人くんはうんざりしたように顔をしかめる。いやあ、相変わらずすごいね、君のその、名前は忘れたけど、体質ね。名称なんてどうでもいいよね。
 スタスタと軽い足取りで近付いて、雅人くんの隣に腰を下ろす。またちょっと嫌そうな顔をされたけどわたしが動く気がないのをわかってるからか強くは言わなかった。代わりに、大きな溜め息をついて、そばの勉強机のイスに移動してしまう。なんだよう、せっかく隣に座ったのに、距離取られちゃった。

 小学校の頃だろうか。友達が、「影浦くんと話すの頭使う」とぼやいたのをよく思い出す。雅人くんのことが気になってたその子に応援するつもりで雅人くんのナンチャラカンチャラという体質のことを教えてから数日経ったあとのことだった。どこか曇った表情の彼女に、わたしはへえ、と呆気に取られたものだ。自分の向ける感情が雅人くんにわかると、頭を使おうと思うんだ。わたしは真反対で、雅人くんと話すときが一番頭使わないから、そういう人もいるんだと意外に思ったのだ。
 それからしばらくして、その子は雅人くんと一切関わろうとしなくなった。彼女の心境の変化について問いはしなかったし察することもできなかったけれど、わたしはその様子を近くで見ながら、もったいないと人知れず思っていた。それ以来、雅人くんの体質のことを言いふらすことはしなくなった。子供ながらに、幼なじみの雅人くんがみんなから距離を置かれることが嫌だったんだろう。

 でも、だから……そう、みんな考えすぎだよきっと。頭を使う必要なんてないんじゃないかなと思うね。

だって、雅人くんバカだもん!


「オメーやっぱバカにしてんだろ!!」
「あはははごめんー」


 雅人くんが立ち上がってわたしの胸ぐらを掴んできたので両手を上げて謝ってみせた。でも誠意までは勘違いしてもらえなかったので彼の怒りは収まらず、ギザギザの特徴的な歯を見せて怒鳴った雅人くんは盛大な舌打ちののち、その手を離した。勉強机のイスにドスッと大袈裟に座り直す。


「マジで何しに来たんだよ…」
「仲直りしに来たんだよ」


 頭をガシガシと掻く雅人くんに間髪入れず返すと、胡散臭そうに顔を上げた彼と目が合う。なんでよ、もう怒ってないって知ってるくせに。わたし君の胡散臭い顔が一番意味不明だと思うよ。何を訝ることがあるというのか。はあーと今日一番の溜め息。雅人くんの。


「おめーが一人でキレてただけだろ」


 ああ、そもそも喧嘩じゃないってことか。それもそうかもしれない?ちょっと考えて、もうどっちでもいいんじゃない、と結論が出た。わたしが雅人くんに腹を立ててたのは事実なんだし、雅人くんがわたしに腹を立ててようがなかろうが、あれは喧嘩だったのだ!


「相変わらずコロコロしてんなおめーはよ」
「コロコロってなんか表現おかしい」
「おかしくねーよ。昼休みんときは明らさまに喧嘩売ってきたじゃねえか」


 あれからどういう心境の変化で自分からここ来ようと思うんだよ。雅人くんは呆れたように机の上で頬杖をつきながら、片足をイスに乗っけてあぐらをかいた。心境の変化…?そう言われても明確な何かは思い当たらない。ただ、元に戻ることが当然のように思ったのだ。だってわたしたち、……。
 さすがの雅人くんもそこまではわからないんだろう。君の体質、あんまりうらやましいと思ったこともないけど、ほんとに難儀なものだよね。不思議。ハッと自嘲気味に笑った雅人くんに目線を上げる。伝わった?でも、今わたし、知らない間に床見てたのに。


「そこで荒船にでも会ったか?」
「…? 会ってないよ、荒船くん二日連続で来てたら面白いけどね!」


 思ったことが口をついたけど想像したらちょっと面白い。ぷっと口を手のひらで隠すと、雅人くんはやっぱり訝るように目を細めたようだ。雅人くんはわたしの心境の変化とやらのきっかけが荒船くんだって推理したのか。随分突拍子ないなあ。ああ、そういえば。


「雅人くん、荒船くんに何かプレゼントしたいんだけど、何がいいと思う?」


 すっかり忘れてた。次荒船くんと会うときまでに何か用意しなくちゃと思ってたのだ。仲直りしたから雅人くんに聞けた。同じ男の子なんだし何か有益な答えが返ってくるんじゃないか、期待の気持ちを眼差しに込めると、雅人くんはその視線から目を逸らした。


「自分で考えろよ」


 残念ながら、返ってきたのは倫ちゃんたちの辛辣バージョンだった。


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