09

「それ、」違います。鼻声だったけど、言い返そうと口を開いた瞬間、肩をぐいと引かれ後ろに押しやられた。


「何してんだ」


驚いて見上げるとそこには花宮くんがいて、しかめた表情は相手の男の子を射抜くように睨んでいた。間に割るように入ってきた彼はそれからわたしをちらりと見て、今度は手首を引っ張り自分の背に追いやった。展開に付いていけずされるがままのわたしは、彼の陰に隠されたあと、少し離れたところにいた原くんと山崎くんに気が付いた。原くんの空気を読まない気の抜けた挨拶に困惑しながらも手を振り返す。左手首はまだ花宮くんに握られていた。


「何って、さんが坂上のこと何か言ってたって聞いたからそのこと話してたんだよ」
「…やっぱりそれか」


びくりと肩が震えた。花宮くんも知っていたのだ。知られたくなかった、花宮くんは、わたしが人の悪口を言ってたと聞いてどう思っただろう。もし嫌われたらどうしよう。そんな不安が脳内を一気に占めた。


「知ってたんだ花宮。そか、坂上と同じクラスだもんな」
「今日陸部が話してるの聞いて驚いたぜ。あんなくだらねえ噂話、よく信じたな」
「だからその事実確認しようと思ったんじゃん」


「聞くまでもねえよ」かろうじて見える彼の目は、侮蔑の眼差しを男の子に向けていた。…花宮くんは信じてない!それは不幸中の幸いというよりももっと、救いと呼べるくらいわたしの心を軽くする事実だった。嬉しくて、一度引っ込んだ涙がぶり返してきそうだった。
反対に男の子は不満気な表情を露わにし、「はあ?」と眉間にしわを寄せた。けれどそんなことには臆しない花宮くんは依然鋭い目つきを緩めず、はっきり、自信を持って口を開いた。


がそんなこと言うわけねえだろ」


露骨に表情を歪めた男の子は適当な捨て台詞を吐いてわたしたちの横を通り抜けていった。生徒は周りに数人いて、さすがだなあという声が聞こえてくる。それに頷きたい気持ちでいっぱいだった。花宮くんがわたしを信じて、助けてくれたことが嬉しいのだ。振り返った彼の表情はしかめられたままだったけれど、構わずお礼を伝えたかった。


「は、はなみやくん、ありがとう…」
「礼言われるようなことしてねえよ」
「だって、信じてくれた」
「当たり前だろ。おまえが言ったんじゃないって知ってんだから」
「うん、言ってない。全然言ってないんだよ」


頷きながら、もしかして花宮くんはもうこの噂を流した人を知ってるんじゃないか、と思った。わたしが言ったんじゃないと知ってるっていう言い方は、つまりそういうことなんじゃないか。思ったことをそのまま問うと、彼は「もちろん」と自信満々に答えた。やっぱり、さすが花宮く、


「あの噂、流れるよう仕向けたの俺だからな」


「…え?」思わず目を見開いた。途端にくっくと笑い出した花宮くんに、何度目かのデジャヴを感じる。身体が急に重くなったような気がした。上から重力が加えられてるような、押し潰されそうな感覚。嘘だと思いたい、けど今までの経験から、これが嘘じゃないとわかってしまう。至極愉快そうに笑う花宮くんはわたしを見下していた。心臓が気持ち悪いくらいに脈打ってる。全身が緊張しているのがわかった。

彼の言う通り、花宮くんが噂を流した張本人なのだ。


「な、なんで……」
「理由なんていつもと同じに決まってんだろ」
「ち、違う、なんで、だって花宮くんじゃん、言ったの」
「はあ?」
「わたしは悪口言えない奴だって言ったの、花宮くんじゃん……」


今まで耐えていた涙が零れた。すると堰を切ったようにぼろぼろ流れ、持っていたハンドタオルを当て俯く。意味がわからない。花宮くんがどうして、こんなことをするのかさっぱりわからないのだ。殺しきれない嗚咽が口から漏れる。我慢なんてしないで、大声をあげて泣いてしまいたかった。


「そうだな。おまえの折れないイイ子ちゃんぶりっ子はすげえ利用価値があるよ」


自分でもわからないけど、どうしてだか今、花宮くんに裏切られた気持ちになったのだ。制御できない感情は久しぶりの凶暴さを滲ませ、タオルの隙間から見えた花宮くんの腕をぎゅうっと掴んだ。力いっぱい握って反撃のつもりだったのに、彼は全く痛がる素振りを見せないどころか、もう片方の手でわたしの頭を撫でた。


「もっと頭使えよ。腕握ったり呼び方変えるくらいじゃあ反撃になんねえぞ」


口とは反対に、撫でる手は卑怯なほど優しい。「冤罪かけられて、辛かったなあ?」白々しい台詞だとわかってるくせに甘美な同情に頷いてしまう。だからわたしは結局、花宮くんにそれ以上何かしてやる気は失せて、するりと手を離したのだった。何も敵わない。わたしのストレスはこの涙から全部出て行ってしまうから、きっと泣き止む頃には何も残ってないのだろう。凶暴さがしゅるしゅるとしぼんでいくのを感じた。いつもと同じパターンだ。

鐘が鳴り教室に戻ると、目撃者の誰かが広めたらしい、花宮くんがわたしを庇ってくれたという話が伝わっていて、目の赤いわたしを見たクラスメイトたちには嬉し泣きだと勘違いされた。廊下で一悶着起こしたのはきっとここまで計算してのことなんだとわかるから、いよいよ敵う気がしない。