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花宮くんはベッドの近くに乱暴にエナメルバッグを置くと、クローゼットの方に行きブレザーとネクタイをハンガーに掛けた。入り口で立ち止まり彼の動作一つ一つを黙って目で追う。背を向ける花宮くんの表情は見えないけれど、きっと晴れてないんだろうことはわたしでもわかった。負けちゃ駄目な試合だったに違いない。悔しいんだろうな。
何となく、今の彼に歓迎されてないのはわかった。けど直接花宮くんに帰れと言われなかったので、こちらから気を遣うことはしなかった。すぐにでも話したいことがあるのだ。普段だったら、どうしてただろう。機嫌の悪い花宮くんに近付いてもいいことはほとんどないから、おとなしく帰ってたかもしれない。けれどこのときそうしようと思わなかったのは、とある自信と期待があったからだ。わたしは花宮くんに、決して嫌われてないという自信と、花宮くんもわたしと同じ気持ちなんじゃないかという期待だ。振り向いた彼の口が開く前に切り出す。


「わたし、花宮くんにいじめられるの嫌だよ」
「あ?今さら何だよ。ンなこととっくのとうに知ってるわ」
「でも花宮くんのことは嫌いじゃない」
「……。要領得ねえな。何が言いたい」
「だからね、わたしと花宮くんが両方幸せになる方法はあると思うの」


花宮くんが眉をひそめる。何か変なものを見るような目でうかがう。わたしは、とどめの一言のつもりでそれを頭の中で二、三度唱えてみた。すると途端に心臓がどきどきと脈を打ち始めるので、やっぱり間違いじゃないなあと改めて思うのだった。胸の前で両手を握り込み、息を吸う。勇気出せ。


「花宮くんがすきだ」
「は?」


相当意表を突いたらしい言葉は花宮くんの目を見開かせた。口をぐっと閉じ、呆気に取られる花宮くんから目を逸らさず返事を待つ。自信と期待は失われてない。だからだろうか、いつも通りの自分でいられてると思う。
しかしその余裕は一瞬で吹き飛ばされる。花宮くんが顔をぎゅっとしかめたのだ。悪い意味で心臓が跳ねる。予想外の反応だった。そのせいで、次に来る彼の台詞に構えることができなかった。


「そんなんで俺がてめえ泣かせんのやめると思ってんのかよ」


え。
花宮くんの言ったことが理解できなかった。一度脳内で反芻させてみてもわからない。一体何の話をしてるんだ。「え、な…」そして聞き返そうとした瞬間、思い出した。昔花宮くんに、泣き落としは効かないと言われたことを。それから、あのとき、腕を握り締めたときに言われたことも。それらが繋がったと同時に、気持ち悪いくらい心臓が浮く感覚がした。

花宮くんは、わたしが言ったことをちっとも信じてない。


「ちが、そんなつもりで言ったんじゃ、ない」
「じゃなかったら何なんだよ。おまえ、俺がおまえをなんで罠にハメるか忘れたわけじゃねえよな」
「…ストレス発散って…」
「そう、正解。バカでもその程度の記憶力はあるみたいだな。ホッとしたぜ。……だから、誰もてめえが可愛くてやってるんじゃねえんだよ」


からだの中が気持ち悪い。地に足が着いてないみたいにぐらぐらする。立ってるのもやっとだった。花宮くんは誤解してるのだ。わたし、そんなつもりで言ったんじゃない。違うのに、なんでそんなこと言うの。こんなこと、わたしが嘘ついて言うと思ってるの、なんでよ、するわけないじゃん……。鼻がつんと痛む。じわりと視界が滲んだ。苦しくて息を吸っても胸が詰まって全然楽にならない。それよりもますます苦しくなった。


「…花宮くんのばか!」
「残念ながらおまえの100倍は頭いいよ」
「じゃあわたしのことも100倍わかってよ!なんで信じてくれないの…」


この感覚は前にもあった。花宮くんが虫除けとしてわたしを利用したとき、あのとき感じた圧倒的な壁だ。花宮くんが一方的に遮断してるのだ。わたしが歩み寄ろうとしても一切受け入れる隙を与えず、跳ね除けてしまう。今もそうだ。花宮くんはわたしの言葉を聞き入れようとしてくれない。虚しさに襲われ、堪えていた涙がついにぼろっと零れた。「…なに泣いてんだよてめえ」こんなの何度も見てきたくせに、花宮くんは今更動揺を見せたようだった。けれどそれについて思考する余裕はわたしにはなく、堰を切ったようにぼろぼろ泣き出したのだった。


「花宮くんのことすきなんだってばあ…」
「…は。何も知らねえクセに」
「なにを、」
「うるせえ。黙れ。てめえのことなんざすきでも何でもねえよ」


心臓が痛い。苦しい。俯いて涙を拭う手で視界はほとんど見えない。花宮くんの声は心底苛立っているようだった。ぴしゃりと遮断され、わたしはもう、言い返す言葉すら浮かばない。


「…帰れ」


そう言った彼の顔は見えなかった。涙は止まることなく零れる。わたしが泣いても花宮くんはいつものように慰めようとしてくれなかった。空いた距離は縮まらず、花宮くんは動こうともしない。わたしはそれが余計に悲しくて、嗚咽を漏らしながら、言われた通り部屋を出て行くしかなかった。