02

あのまま花宮くんの肩を濡らし、落ち着いたのを見計らって彼は腕を解いた。すぐに帰らず部屋でぼーっとするのもいつものことなので花宮くんは追い返したりしない。彼の部屋は設備としてかなり整ってるのに、きちんと整理整頓されてるので物が多いとは感じない。花宮くんが普段読書するときなんかに使う一人掛けのソファに体育座りをして座る。重いまぶたに従ってもう寝てしまいたいけれどまだお風呂に入ってないしご飯も食べてない。もうしばらくしたら帰ろう、と思いながら時間を確認し、携帯のロックを解除した。花宮くんは背中を向けて着替えている。わたしが思いっきり濡らしてしまったからだ。ごめんなさい、と申し訳なくなったけど悪いのは花宮くんだと思い直して首を振った。
メール画面を開いて、数日前のメールを辿っていく。友達と交わしてると思っていたやりとりは実は友達を騙った花宮くんで、そうは言われても彼の打った文面にはちっとも違和感がなく、さすがだなあ、と思うと同時におかしさが込み上げてきた。


「ふふっ」
「…あ?何笑ってんだよ」


ティーシャツに着替えた花宮くんが振り返り、怪訝な顔を向ける。「だって花宮くんがこれ打ったのかと思ったら面白くて」隠すことなく素直に答える。友達はそこまできゃぴきゃぴした子ではないけれど正真正銘の女の子で、それとそっくりな口調を花宮くんが考えたんだと思うと一連のメールを全部保護したいくらいだった。
気に障ったらしく、少しだけ顔をしかめた彼はスタスタとこちらに近付いてき、わたしが見上げると同時に手の中の携帯を抜き取った。「あっ」取り返そうとするもソファに体育座りしているわたしが手を伸ばしても届かないところまで持ち上げられ、真正面に立たれたせいで立ち上がるスペースもなく為す術なしだった。こういうちょっとしたことでも花宮くんは一枚上手だ。
花宮くんは親指を何度か動かしたあと、「ほらよ」と携帯を投げ返してきた。受け取って画面を見てみるとさっきまであった花宮くんのメールは一つ残らず消えていて、思わず落胆の声を漏らしてしまう。保護したかったのに。「なにがっかりしてんだよバァカ」肩を落とすわたしに花宮くんが吐き捨てる。


「……あ、そういえば花宮くん、なんでわたしのパスコードわかったの?というかいつアドレスいじったの?」
「おまえが解除してるの見たから。誕生日パスコードにしてる奴なんて今どきいねえぞ。セキュリティ甘過ぎ」
「……今変える」
「そうしとけ」


二つ目の質問が流されてしまったのはもういいだろう。花宮くんの前で携帯を放置するなんてよくあることだから聞いたって仕方ない。彼から見えないよう携帯を垂直に持ち、こっそりパスコードを変更する。わたしのプライバシーとは何なんだろう。それに、いきなり変えろと言われたって何も思いつかないよ。忘れてしまったら元も子もないし。数秒考えたのち、これなら大丈夫だろうとキーボードを打った。0112。花宮くんの誕生日。打ち易いし、花宮くんもまさか自分の誕生日がパスコードとは思わないだろう。登録を確認し、電源を切った。


「お買い物行きたかったなあ」
「ああ、本当に残念だったね。とでも言うと思ったかバァカ。騙されるおまえが悪いんだよ」
「…今度一緒に行こうよ」
「お友達に頼め」


バシッと頭を叩かれ、それから花宮くんは背を向けて少し離れたところにある勉強椅子に腰掛けた。

花宮くんがわたしをいじめるのは何も嫌いだからとか突き離したいからとかじゃないことはわかってる。じゃなかったら慰めてなんてくれないし、花宮くんが本気を出せばわたしなんて完膚なきまで潰せてしまうだろう。小学生くらいまではいたずらと呼べる程度のものだったのが中学あたりからは嫌がらせみたいなものが増えてきて、それでもわたしはぎりぎり生きていけてる。恥をかいて消えたくなったことは何度もあるけれど。
だから、嫌われてるわけじゃない。その確信はずっと昔から持てているので、彼が怖いだとか、遠慮しようとかいう気持ちはない。そもそも花宮くんに遠慮なんてしてたら彼の作為の前に気疲れで胃が潰れてしまうよ。だからこうして部屋に気兼ねなく入るし、お出掛けに誘ったりする。大体邪険にされるし断られるけど。


「つーかおまえは泣き終わるとすぐ忘れんのなんとかしろよな」


机に置いてあった本を開いてそう言う花宮くんの顔が呆れてるのが横からでもよくわかった。少し考えて、数十分前の出来事を思い出した。


「忘れてないよ」
「忘れてない奴は騙した奴と約束取り付けようとはしねえんだよバァカ。覚えとけ」


伏し目の横顔から発せられる暴言にはもう慣れた。思い出したとか言ってる時点で忘れてたのは否定できないだろう。でも、元凶である花宮くんに慰められるともう気は済んでしまうのだから仕方ない。だから全く学習せずに、同じ手口に何度も引っかかるのだ。気付いたときにはすでに騙されたあとで、また花宮くんに泣きついて忘れるという悪循環を繰り返している。


「そもそも花宮くんがいじめなければただ仲良くできるのに」
「ふはっ。残念ながらそれは絶対やめてやんねえよ」


悪そうな笑みを浮かべて言い切る花宮くんをぼんやり見つめる。それから、折り曲げた膝に口を当て自分の足に視線を下げながら、だとしてもきっと花宮くんを嫌いにはなれないなあ、と思った。