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次回資料集を使うと教師が宣告していたものの脳内からすっかり消え去っていたので、休み時間に急いで他クラスへ借りに出向いた。本来ほとんどの教材をロッカーに置き勉してるのだけど、二回目のテスト期間に持って帰ってから一度も授業で出番がなかったため家に置きっぱだったのだ。誰でもよかったからタイミングよくトイレから出てきた知り合いを捕まえ、無事入手に成功し四限を乗り越えた昼休み、俺は再びそいつのクラスに返しに来ていた。
さんきゅーと軽い調子で渡すと昼食の真っ最中だったそいつは口を動かしながら受け取った。さて用も済んだことだし戻ろう。俺はひらりと手を振り踵を返した。


(あ、さん)


前の入り口から出ようと歩いていたら、席に座った後ろ姿のさんが目に入った。彼女のことは花宮関係で話題によく上がるため一方的に知ってるのだが、直接そこまで親しいわけではないのが現実だ。けどまあ、一言くらい挨拶しとこうかな、なんとなく思いながら斜め後ろあたりで足を止めたところで、彼女は机に置いていた携帯を手に取った。


(ぜろ、いち、いち、に…)


慣れたようにパスコードを打つ彼女は俺の存在に気付いてないのだろう。斜め後ろ、しかも上の視点からじゃあ彼女の手元は丸見えだった。あーあ、パスコード知っちゃった。0112ね。悪気はないから許してよ。
と、ここでふと思い出す。もう結構前のことになるけど、花宮がさんの電話帳を書き換えて一計企てたことがあった。花宮が部活後珍しく携帯をいじっていたので聞いてみたら、さんの友人を騙って約束を取り付けてることを教えてくれた。たまたまパスコードが見えたから利用してやろうとのことで、そのときはそんなこともあるのかと半信半疑だったけど、もしかしたら花宮もこんな感じで知ったのかもしれない。不可抗力でも案外わかってしまうもんだ。単純なものだったから余計に。0112ね、あんなことされたくらいだからパスコード変えてるかもしんないし、折角だから花宮に教えてやろー……。
……ん?0112?


さんやっほー」
「、あ、原くん」


二歩進み彼女の隣まで来て声を掛けると、さんはちょっと驚いたあと控えめに手を振った。まさか俺がパスコードの入力を見てたなんて思ってすらない彼女は携帯の電源を消したあとそれを机に置いた。面白いことに気が付いた俺は好奇心に忠実だ。隣の机に腰掛け、風船ガムを膨らませる。


「ねえねえあのさ、さんて花宮のことどう思ってんの?」
「? どうって?」
「いっつもいじめられてんじゃん。嫌いになったりしないの?」


例えばここで彼女が頷いたとしても、それは至極当然のことだろうと思う。俺が見てきた範囲ですら花宮がこの子にちょっかいなんて可愛いものでは済まされないことをしたのは一度や二度じゃない。その結果として嫌いになったってちっともおかしくはないのだ。むしろそれが普通だろう。
しかし俺は、いやザキも古橋も瀬戸も、きっと首を縦に振るか横に振るかで賭けるとしたら、満場一致で横に賭けるだろう。「嫌いじゃないよ」ほら、勝った。さんは理解し難いことに、花宮を決して嫌いにならない。それを俺たちはもう確信していた。


「わたしずっと昔から、花宮くんと仲良くしたいと思ってるよ」


「……そっか」しかしそれだけじゃなく、彼女の表情に今まで感じ得なかった何かを見出した俺はそう返し、短く別れの挨拶をして教室を出たのだった。スラックスのポケットに手を突っ込みながら自分のクラスまでの道のりを歩く。彼女が花宮を嫌ってないことは普段の生活からでも見て取れた。理由は不明だけど、今もパスコードをあいつの誕生日にしてることからも間違いじゃない。が、それ以上のことは今までどうにも掴めないでいたのだ。
でも思ったよりもしかして、と、ある結論に辿り着いたところで教室にも到着し、俺はすぐ近くの席に座っていたそいつに早速もろもろの報告をすることにした。


「なあ花宮ー」
「あ?用は済んだのかよ」
「うん。でさ、前におまえさんの携帯いじったときあったじゃん」
「…ああ、んなこともあったな」
「あれパスコード何だったの?」
「あいつの誕生日」
「へー、やっぱ変えたんだ」


花宮が眉間に皺を寄せる。不機嫌になったわけではない。さんに関してこいつが、独占欲だとか嫉妬心だとかをそんなわかりやすく露わにするわけがない(ある意味独占欲は底なしな気がするけど)。多分俺の言わんとしてることを考推測してるだけなんだろう。しかしわざわざもったいぶっても仕方ないのですぐにネタばらしをしてやる。「いんや、今のパスコード、花宮の誕生日だったから」「…は?」すると今度は呆気にとられたような顔になった。まあ、だよね。


「マジマジ。さっき見た。嘘だと思うなら確かめてみ」
「……。いや、そうなる可能性もなくはないな」


机に肘を付き、指の背で口を隠した花宮はそう言ったあと呆れたように溜め息をついた。もっと動揺を見せるかと思ったのに案外早く気を取り直してしまったようだ。「え、そう?フツーなくね?」俺が思ったことをそのまま口にすると花宮は目つきを悪くして俺を睨み、「パスコード変えさせたときその場にいたのが俺だけだったんだよ。思いつかなくて、目についた俺の誕生日にしててもあいつならおかしくねえ」とのたまった。どうやらこいつは自慢の賢さを発揮し、驚くべきではないとの結論に早々に至ってしまったらしい。そんな安直なことがあるのかと思わないでもないが、彼女に関しては花宮の推測以上に当てになるものがない。要は、花宮の言ったことを覆せるわけがないのだ。なんだつまんねーの。
適当な相槌を打ち、ガムを膨らませる。ふと目を落としてみると彼の机の上には頭が痛くなりそうなハードカバーの本が置いてあったのですぐさま目を逸らした。そのまま、はあ、とまたもや溜め息をついた花宮に視線をやる。誕生日じゃセキュリティ甘いっつったろうがあのバカ、とか何とか零した花宮はしかし言葉の割に怒気はほとんど含まれていなかった。それを見て、さらに好奇心をくすぐられずにはいられない。


「なあ、そろそろ認めろよ花宮。さんのことすきなんしょ?」


ストレートに問うと花宮は即座にぐるんとこっちを向いた。いつもだったらバカにしたように否定するのに、今回は目を見開くだけで流暢な解答は返ってこない。と思ったら、はああと特大の溜め息をついた。表情はものすごくうんざりしてる。あ、やばい?俺もザキみたく馬に蹴られるかも。この間のボール腎臓直撃事件を思い出し肩をすくめる。


「…認めても認めなくても何も変わんねえだろ」
「えっ」
「なんだよ」


予想外の返答に驚きの声をあげる。「まさか肯定されるとは」「チッ…めんどくせえなおまえ」バツが悪いのか、不機嫌になった花宮にもうどっか行けと粗雑にあしらわれたけれど、ハイわかりましたなんて動く気はまるでなかった。そうするにはまだ早い。馬には蹴られたくないけど、首は突っ込みたいのだ。


さんもおまえのことすきだったりしてね」
「はあ?」


あれ。
案外ゴールは目の前だってことを暗に知らせたつもりだったのだが思いっきり跳ね返された。花宮の反応は照れてるとかじゃない。本気で、何言ってんだこいつって顔してる。その可能性をまるで考えてないようで、しかし俺が示唆したからといって目からウロコなんてわけでもなく、例えば俺が、太陽が地球の周りを回ってるんだとか、常識はずれのことを言い出したみたいな表情だった。


「…花宮ってさんに何も期待してねーの?」
「はあ、期待?」
さんがおまえをすきになるかもって思わねえの?」
「おい…今まであいつに何したと思ってんだ。あり得ねえだろ。キモいこと言ってんじゃねえよ」


俺は自分の直感を疑ってはないんだけど、確かにまあ、そう言われると返す言葉はない。花宮の言い分はもっともだ。呆れたように言い切った花宮にさっきさんと話して感じたことを教えてもよかったのだけど、これ以上言ってもどうせ聞かないかと、タイミングよく五限の予鈴が鳴ったところで自分の席に戻った。
机の中から教科書を取り出し乱雑に置く。頬杖をつき、真っさらな状態の黒板を眺めながら、ぼんやりと考える。もし花宮がさんを、あんなわかりにくい愛情表現なんかじゃなくてちゃんと愛せでもしたら、そしたら簡単にハッピーエンドに辿り着くだろうに。まあ残念ながらその想像は困難を極めるから、とりあえずあいつら全員に集合かけよ。そう思い至った俺は意気揚々と携帯の電源をつけたのだった。