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『今日暇だろ?面白い映画のDVD借りたんだけど一人で見んのもムナしいから家来いよ』


遅めの昼ごはんを食べてしばらくした頃、花宮くんからそんな電話が掛かってきた。時計を見てみるとちょうど三時を回ったところで、特に用事もないわたしは二つ返事で頷いて家を出る支度をした。お勧めされる本もだけど、花宮くんの嗜好はなかなかにマニアックというか難しいものを好むので、彼の「面白い」という映画もきっと難解なんだろうなあと思う。それでも見終わったあと質問すると面倒くさそうにちゃんと答えてくれる花宮くんがわたしは結構すきなので、こうして懲りずに見に行くわけである。今回は何だろう。また謎解き物かな。

インターホンは鳴らさず家の敷地に入り、そのままドアを開ける。鍵は掛かってなく、ガチャリとすんなり開いた。花宮くんは不用心な性格ではないのでもちろんこれは意図的にやってるものである。わたしだとわかってるのにインターホンを鳴らされて玄関まで出迎えるのが億劫な彼は約束を取り付けたあとあらかじめ鍵を開けておくのだ。そうしてわたしが勝手に入って鍵を閉め、勝手にリビングまで行く。これが定着したのはいつからだっただろう。花宮くんは昔から一人でも大丈夫な子供だったから、おばさんも気兼ねなく出掛けてたらしい。ああでも、それでわたしのお母さんまで連れていってしまうから結局、花宮くんはわたしと一緒にいた気がするなあ。
そんなことを思い出しながらリビングに辿り着くと、テレビの前でしゃがんでDVDプレーヤーを操作している花宮くんが目に入った。彼は上下ともにラフな部屋着を着ていて、わたしの方を向くと「おう」と簡素な挨拶をした。セットはもう完了してるのか、それにしてはお昼の番組が流れたままのテレビの前から立ち上がり向かいのソファに移動する。倣うようにわたしもそちらに行くと、花宮くんはソファに座らずローテーブルとそれの間に腰を下ろしたので、わたしもテーブルを囲うように座ろうとした。


「ここ」
「え?あ、うん」


おもむろに花宮くんが自分の隣をポンポン叩いた。珍しいなあと思いながら、特に断る理由もないので指定された場所に座る。「花宮くん、今日部活なかったの?」「午前練だった」なるほど、それなら納得だ。霧崎は屋内部活の多い高校だから、体育館は譲り合って使わなきゃいけないのだろう。大変だなあ、とちょっと考えたけど、部活動での花宮くんをあまり知らないのでそこまで深刻には思えなかった。
よく見ると花宮くんの髪の毛が少し濡れていた。どうやらお風呂に入ったらしい。彼の格好にも納得のいったわたしは反対側でDVDのケースをカバンにしまう花宮くんに気付き、また問い掛けた。


「何見るの?」


しまわれたケースはよく見えなかったけれど暗い感じのデザインだった。やっぱり謎解き系かな、と予想してると、「ああ…」花宮くんは何かを考えるように斜め上を見たあと、テレビに向いて座り直した。「面白いやつ」
答えになってないよ、と声に出す前に、腰に手を回された。びっくりして引き寄せられた勢いで体勢を崩しそうになる。「わっ」「逃げんなよ」顔は見えないけれど彼の声は楽しげだ。立てていた彼の右膝に一度手を付いてなんとか持ち直したところで、花宮くんの右手がリモコンのボタンを押した。テレビの入力が切り替わり、音も消え真っ暗になる。なんだ?と思ってると今度は再生ボタンを押したのか、画面の右上に三角の記号が表示された。どうやらすっかり準備万端だったようだ。そんなことを考えられるくらいにはなんとか落ち着けていたわたしは、花宮くんの膝から手を離し、元の体勢に座り直した。彼に拘束されてるままなのでさっきよりも近い距離になってしまう。なんか緊張するな、と密かに思いながら、DVDに集中することにした。映像が流れ始めてもやっぱり薄暗い雰囲気だ。ここどこだろう、学校?


「………」


んん?なんか、おかしくないか?これ、どういうシーンだろ。
次の瞬間画面に映り込んだものを見た瞬間、わたしは悲鳴を上げた。びくっと身体を跳ねさせると回された腕に力が込められた。それにハッとして、もしかして、と思う。血の気が引いていくのがわかる。おそるおそる顔を上げ、隣の花宮くんを見る。


「花宮くん、これ、ほ、」
「ホラー映画だな」


あまりにもあっけらかんと返され一瞬呆けてしまう。ホラー、映画。なんで。ゆっくりと画面に視線を移す。場面が変わり今は日常のシーンなのか、二人の学生が道を歩きながら何かを話していた。


「はなみやくん、とめてよ…」
「そろそろおまえもこういうの慣れた方がいいんじゃねえの」
「い、いらない…」
「大丈夫だって。頑張れよ」


とても他人事のように言いのける花宮くんに愕然としてしまう。彼はわたしが、ホラーの類がめっぽう駄目なことを知っている。知っていて、克服した方がいいなんて言ってる、のだ。…またハメられた。ホラー映画だって知ってたらわたしが絶対に来ないのをわかってるから、言わずに呼んだのだ。この回された手はわたしを逃さないためなんだろう。なんでこんなこと、わざわざするんだろう。けれどこの追い詰められた状況で考えられるわけもなく、とにかくこのあと絶対に訪れるであろう話の山場から逃れるべく、わたしは目をつむり耳を塞ぎ、立てた膝に顔をうずめる行動に出た。


「オイ、それじゃ意味ねえだろ」


しかし簡単に右手で手を剥がされてしまう。「やだやだやだ!」「ちゃんと話わかってねえと余計怖えぞ」必死の抵抗をするもそんな花宮くんの一言に信憑性を感じてしまったわたしは、おそるおそる耳から手を離し顔を上げた。「いい子だな」花宮くんのその声がやけに心地いいものだったばかりに、馬鹿なわたしはこうしてまんまとホラー映画を見る決心をしたのだった。

しかし二十分後、予期せず起こる数々の恐怖に震えていたわたしはついに耐えきれず泣き出すこととなった。三人目の被害者のグロテスクな死体を目にした瞬間膝に顔をうずめ、みっともない声を漏らす。もう限界だ。


「もうやだ……」
「…はいはい」


わたしのギブアップをわかっていたのか、花宮くんは映画をすんなり止めてくれた。それが少し意外でぼやけた視界のまま花宮くんを見ると、テレビの電源を消したあとケースを取り出していた。腰に回されていた手はいつの間にか離れていた。


「古橋の言ってた通りだな。あんま怖くねえ」
「…え?」
「あいつから借りたんだよ。一番マシなのっつって」


古橋くんはこういうのがすきなのだろうか。彼のことはほとんど知らなかったけれど、なんとなく想像には難くなかった。さっきまでの映像の衝撃が強すぎてほとんど頭が回っていなかったわたしは、そうなんだ、と半ば放心状態で返したあと、やっと花宮くんの言ったことを飲み込めた。そして首を傾げる。一番マシなの、って、どういうことだろうか。


「怖くないのってこと…?」
「そ。俺の優しさだよ」


瞬きをすると涙が頬を伝う。まだ止まらなかった。花宮くんはさっき、怖いことに慣れた方がいいって言ってた。それを合わせて考えると、つまり、本当にわたしの克服のために借りてくれたってことになる。でも最初から言ってしまってはわたしが逃げると思って隠してたのだ。あまりに他人事みたいに言うから、また騙されたと思ってしまった。そうか、なんだ、わたしのためだったのかあ。怖くて仕方なかったけど、そう思うと悪い気はしない。「あ、ありがとう…」でもちゃんと最初からそうと説明してくれれば、わたしもしっかり心構えして挑めたかもしれないのに、…「ふはっ」考えていると、突然花宮くんが笑い声を上げた。咄嗟に彼を見る。


「おいおい、また都合いいように考えてんのかよ」
「え、」
「おまえの弱点克服のためなワケねえだろバァカ。いい加減学習しろよ」


目を見開く。「俺がいつおまえのために何かしてやったよ」花宮くんはそう言うと愉快げな表情をしまい込み、ひどく馬鹿にしたようにわたしを見下した。え、でも、と声を漏らすけど、ひっくり返された思考はまとまらない。


「じゃあ、なんでわたしに見せたの…」
「おまえ泣かせるために決まってんだろ。いつもそうじゃねえか」


花宮くんは曲げた膝に肘をつきながら、はあ、と見せつけるように溜め息をつく。その言葉を聞いて、やっと気が付いた。ホラー映画だということを隠してたのも、わたしを逃がさないようにしてたのも、唯一の譲歩が一番怖くない内容のチョイスだったというだけで、全部、ストレス発散の目的でしかなかったのだ。「ひどい…」止まりかけてた涙がまたぶり返す。さっきの映画の内容を思い出して身体が縮こまる。花宮くんは、そんなわたしを見てふっと目を伏せたようだった。


「つかホラーで泣けるもんなんだな。自分で仕掛けといてアレだけど」
「うっ…うっ…」
「怖かったか?」
「怖かったに、きまって、…」
「……」


花宮くんはわたしを見下ろしていたと思ったら、身体ごとこちらに向いた。「顔上げろ」その声の通りにすると、彼の右手がわたしの頬に触れた。それは何度も、花宮くんがわたしを慰めるときにしてくれることだった。され慣れたことであるのに、けれどこのときわたしは、自分の心臓が高鳴るのを微かに感じていた。
親指の腹で涙を拭われる。嫌じゃない。わたしは昔から、花宮くんにこうして慰められることが、嫌じゃないのだ。右手の感触が心地よくて目を閉じる。その拍子に涙がまた零れる。もう片方の頬にも手を添えられ、少しだけ力が込められた気がして目を開いた。ら。

花宮くんの口元が見えた。気付いたときには花宮くんの顔が近距離にあって、目尻を、彼の舌が舐めていた。

ほんの一瞬のことだったと思う。けれどわたしの脳には彼の一連の動作がスローモーションのように映り、けれど温かい感触だけは、はっきりと頬に残った。思いもかけなかった事態にさっきの比じゃないくらいに放心してしまう。目をいっぱいに見開き花宮くんを凝視する。声が出ない。限界まで近かった顔は少しだけ離れたけれど、まだ焦点の合うぎりぎりの近さにあった。呼吸がかかってしまうんじゃないかと思わせ、息を吐くこともままならない。わたしがすっかり固まってしまっているにも関わらず花宮くんはわたしの目から少しずれたところを見ていて、お、と口を開いた。


「止まった」
「…は、はな、…」


なんとか声を絞り出そうとするとようやく手が離され、目尻を袖でごしごし拭うと花宮くんは最初と同じように後ろのソファに寄り掛かった。彼は至って自然体だ。少なくともわたしの目に映る彼はそうとしか思えなかった。花宮くんの言った通り涙は止まっただろう。というより、そんなことを気に掛ける余裕もなかった。


「おまえん家誰もいないだろ」
「う、ん」
「どうする、帰るか?続き映画見てもいいけど」


何にもなかったかのように、後半は冗談めかしたようにすら問い掛けてくる花宮くんは今しがた起こったことを考える隙を与えない。わたしは鈍い思考回路をなんとか動かして彼の質問に答えようとした。映画の内容はまだ鮮明に思い出せる。いくら今がまだ明るい時間だからといって、家に一人きりでいるのはどうしても嫌だった。


「こ、怖い…」
「ふはっ、だよな。んじゃ適当にくつろいでろ」
「…ありがと…」
「…どういたしまして。なんか本持ってくる」


そう言って立ち上がり、リビングを出て行った花宮くんを見送る。その後ろ姿に変わった様子はない、けれど。はあ、と息を吐きながら膝に額を当てる。
……最近の花宮くん、やっぱり変じゃないかな。前までこんなことなかったのに。


それに、そんな花宮くんにどきどきしてるわたしも変だ。