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「いい加減起きろバカ」


腰あたりに強めの衝撃が走り目が覚めた。寝起きで働かない頭のまま、何か聞こえた気がして振り向くとしかめ面でわたしを見下ろす花宮くんが見えた。今の、花宮くんの声だったのか。多分蹴られたんだろなあと思いながら起き上がる。部屋は電気が点いてるから明るかったけれど窓の外はまだ薄暗く、壁掛け時計に目を遣ると六時を回ったところだったので、えっと驚いた。普段休日に起きる時間よりよっぽど早いのだ。花宮くんに向き直ると彼はすでに制服に着替え終えていて、うんざりしたような表情は先ほどから変わっていない。


「もう出んだよ。てめえもさっさと帰れ」


ああそういえば、そんなこと言ってたなあ。昨日、花宮くんのお母さんとリビングで話していたとき、花宮くんは次の日が早いからもう寝てるのだと聞いた。遠くの高校と練習試合らしいけど、県外への遠征なんてものはよくあることなので別段気にするでもなくへえと相槌を打つことしかしなかった。何時に起きたんだろう。花宮くんは朝が強いからうらやましいなあ。

花宮くんの言葉に頷くことはせず、身体の向きを変えてベッドに腰かける。昨日は放課後遅くまで友達とマジバでおしゃべりをしていて、帰ってすぐお母さんに頼まれて花宮くん家に届け物をしに行った。スカートくらいは脱ぎなさいと言われ、洗濯物の山から見つけた中学のハーパンにだけ着替えて出掛けた。届け物の一つがお茶菓子だったのと花宮くんのお母さんが遅めのティータイムだったのが合わさり、そのまま二人で話し込んでいた。
いつの間にかわたしの母に連絡をしてくれたおばさんは長い時間おしゃべりした末に、今日は泊まっていきなよと言ってくれた。お言葉に甘え頷き、けれど布団の準備は断って、わたしは花宮くんのベッドに潜り込んだのだった。

お開きは日付が変わる前ではあったけど、何を話してたんだっけ。思い出そうと鈍い思考回路を循環させていると、はあ、とわざとらしい溜め息が聞こえた。顔を上げる。


「おまえウチの親と何か話したろ」
「…あ、うん」


そこで思い出した。花宮くんの呼び方についてだ。確か始まりはわたしがおばさんに敬語を使うことについてだった気がするけど、どうなってかその話題になった。おばさんが花宮くんにあだ名をやめるよう言われ変えたことと、わたしも苗字呼びに変えてしまったこと。おばさんの方は「まあ男の子だし仕方ないよね」とあっさりしていたのに、わたしが呼び方を変えたことに関してはどこかもったいなさそうに嘆いていた。どうして変えちゃったの?と純粋に聞かれ、わたしは気まずさを感じながら「周りにからかわれてて…」と縮こまった。嘘ではなかったけど、仕返しのつもりだったことは言えなかった。まあ確かにね、と相槌を打つおばさんの顔をまっすぐ見ることができず、手元にあったティーカップに視線を落としたのだった。


「変なことしゃべってんじゃねえよ」
「変なことじゃないと思うけど…」
「変なことだろが。あの人ら、俺とおまえがいつ……」
「?」
「…なんでもねえ」


舌打ちをした花宮くんに首を傾げる。あの人らとは、誰のことだろう。話の流れからして花宮くんのお母さんはわかるけど、「あの人ら」と複数形で言うってことは一人じゃない。それに花宮くんは、何と続けようとしたのか。じっと見上げるわたしの視線から逃れるように、花宮くんはふっと首を左に背けた。


「とにかく余計なことはしゃべるな。あと布団に入ってくんのもやめろ。てめえが思ってるより狭えんだよこっちは」


そんなことないだろう、と思いつつ、頷いておく。花宮くんの言うことを律儀に聞く義務なんてどこにもない、から、多分また潜り込むだろうなあ。君も知ってる通り、このベッドは自分のより数倍寝心地が良いのだ。おばさんも昨日わたしが花宮くんのベッドにお邪魔することを快諾してくれたし、何の問題もないだろうと思う。
そういえば、おばさんに敬語を使うようになったのは花宮くんをマネしたからだった。中学の頃、礼儀正しさに拍車をかけた花宮くんはわたしの両親に敬語で話すようになった。それは効果てきめんで、わたしの親はますます花宮くんを良くできたいい子だと褒めるようになった。特に何か狙ったわけでもなく自然とわたしもそうするようになったのだけど、もちろん彼と同じ効果が出ることはなかった。花宮くんのお母さんはわたしを可愛がってはくれるけど、息子への信頼には勝らない。

ふああとあくびが漏れた。しっかり六時間寝たはずなのにまだ眠い。そんなわたしを見てか、眉をひそめて何か言いたげな花宮くんに気付くと、彼はその微妙な表情のまま手を差し出した。


「ほら、手」


て?
突然のことにびっくりして三秒ほど固まってると、また舌打ちをした花宮くんに強引に手首を引っ張られた。「うわっ」勢い良く立たされ彼の方へよろけると花宮くんはわたしの肩を押さえ受け止めてくれた、と思ったらパッと手を離し、無言でわたしを見下ろした。
見上げた先の彼が何を思ってるのかやっぱりわからず、わたしはどうしてだか神妙な顔つきの花宮くんから目を逸らせなかった。


「…はなみやくん?」
「……はあ」


花宮くんは深々と溜め息をついたと思ったら、「リボン忘れんなよ」とだけ言ってエナメルバッグを肩に掛け、入り口へ歩き出してしまった。今のは一体…?首を傾げたいのを我慢してリボンを手に持ち、急いであとを追う。


「どっどうしたの花宮くん」
「ああ?どうもしてねえよ」
「え、だってなんか…ていうか、手引っ張ってくれるなんて花宮くん、」
「てめえがチンタラしてっからだろバァカ。こっちは暇じゃねえんだよ」
「そ、そっか……」


さっきの表情は何だったのだろう。それにたかがベッドから立ち上がるためだけに花宮くんが手を貸してくれるなんて、滅多にないどころか初めてなんじゃないか。時間がないから急げって言ってくれれば自分で立てたよ、わたし。そう言ってしまうのはなんだか駄目だと思ったので黙っておいた。……なんか、なんとなくだけど、今日の花宮くんいつもと違う気がする。
廊下を歩きながら、花宮くんの右手に視線を落として考える。花宮くんは優しくないけど、優しいときもときどきあるのだ。慰めてくれるときもだし、この間転んだときは、引っ張り上げて手当てまでしてくれた。あれ、嬉しかったなあ。
今日もそうだ。驚いたけど、悪い気は全然しなかった。心臓がじんわり暖かくなって、自然と口がにやけてしまう。……ああ本当に、そうだ。

わたし、花宮くんに優しくされるの、すきだなあ。

斜め後ろから見える花宮くんの表情はあからさまにうんざりしてたけど、何となく、チンタラしてたわたしのせいじゃない気がした。