気配に目を向けると、開け放した戸から主がひょっこりと顔を覗かせた。


「どうしたの?」
「どうもしてないよ?」


「いい匂いがしたから来てみた」そうはにかむ彼女の笑顔に不覚にもむずがゆくなるから強くは言えない。そう、とだけ返し、かき混ぜていた鍋の蓋を閉める。食堂につながるこの台所から香ったのはおそらくただの味噌汁の匂いだ。ほとんど毎日といっていいほど作られるこれの匂いなんて、わざわざいい匂いだなんて形容するほどでもないだろうに。とはいえ、食事当番はこんな台詞ひとつで単純にも持ち上げられるので、俺たちは毎回彼女を受け入れるのだろう。言い慣れてる感は、つまり台所が彼女の逃亡先の一つであることを物語っていた。


「安定くんが任務の報告しに来たのなんでだろうって思ったら、加州くん当番だったからか」
「そ。ごめんね」
「なんで?わたしこそごめんね。もっと早く帰って来られるとこにお願いすればよかった」
「……」


 今さらだけどさ、ちょっとはさ、俺が報告に来なくて残念だった、みたいなこと言ってくれたら嬉しいんだけどなー。はがゆい気持ちになりながら、そんなこと気にしないでいいよと返す。トコトコと入り口から歩いてきた主は言われた通り本当に何も気にしていないようだった。表情が顔に出る子だ。それがわかるから、彼女と接していると余計にもどかしくなる。もしそんな何でもないような顔して、本心ではものすごく俺のこと案じてくれてて、いろんなことを考えてたら……でもそういうのはきっとすごく疲れるだろう。前の主がそういう人だったからわかる。だから今の主くらいは、難しいこと考えないでそのままにこにこ笑っててほしいと思う。それに俺は、彼女のそういうところも含めて気に入っているのだ。高望みはするものじゃない、とは、ちゃんとわかってるつもりなんで。一応は。


「……味見する?」
「する!」


 ピンッと背筋を伸ばした彼女にポカンと口を開ける。それから思わずくすっと零す。そうそう、一喜一憂するのが馬鹿らしくなるよ。主はいつでも掴めない女の子だ。前に薬研が主は猫みたいだって言ってたのは、なかなか的を射ていると思う。
 お椀によそって渡す。猫舌らしい彼女は息を吹きかけて冷ましてから、おそるおそるといったように味噌汁を飲んだ。ごくんと喉の音。それから、どこか安心したようにほっと息をついた。


「……やっぱり加州くんのお味噌汁はおいしい」
「そう?他の奴らと変わんないでしょ」
「みんなのもおいしいけど、加州くんのはわかる」


「最初に一緒に台所立って、加州くんが作ったのがお味噌汁だったの覚えてる」目を伏せる彼女が笑っている。そう、彼女が審神者に任命されたとき、最初に選ばれたのが俺だった。この本丸で彼女に呼び起こされ、今の生活が始まった。すぐに来た短刀と最初の夕餉を三人で作った。覚えてる。
 あれから随分経った。本丸も刀剣男士が増え賑やかになった。いつからか当番制になった食事係も審神者としての負担を考えて主は外された。そう考えると、こういう風に二人で台所に並ぶのは、結構久しぶりだ。


「よし!今日はわたしも手伝うよ!」


 感慨にふけっていると主が唐突に腕まくりをしだした。思わず目を丸くする。


「え?主は仕事あるでしょ?」
「……ある……さすが近侍……」
「まあね。ほら、ここは俺らに任せて。すぐ愛染も戻ってくるから」
「わー相方国俊くんなんだ、本当に昔に戻ったみたいだね」


 ああ、そうだね。でも昔と同じじゃないこともあるからさ。はいはいと弱い力で主の肩を押しやる。それに合わせて拙い動きで足を動かす彼女の後ろ姿を、自分でやっておいて名残惜しく思うのだ。本当は俺だって(多分主以上に)、一緒にご飯の支度ができたら幸せだと思うのに。
 俺、主のこと最初からすきだったけど、今はそれとは違う意味でもっとすきになったよ。言ったら絶対驚かれるだろうな。それで、そのあとどうなるかな。俺、今でこそ人の姿してるけど、そもそも刀だしな。


「わたしも夕飯作りたかった……」
「……じゃ、次俺の当番回ってきたとき、主が仕事終わってたら一緒に作ろ。声かけるからさ」
「え!うん!」
「絶対だからね。それまで我慢するんだよ」


 振り返って俺を見上げる彼女の目が細くなり、うん、と大きく頷く。優しいとか思ってるんだろうな。ごめんね。やっぱり謝るのは俺の方だ。
 手を伸ばし、こつんと額と額を合わせる。申し訳なさに目を閉じた。
 いちいち独占したいの。俺以外とこんな時間共有しないでね、お願いだから。
 目を開いてゆっくりと離れると、主が頬を赤くしているものだから、俺の罪悪感はそこで途切れる。