風だけがまごうことなく爽やかでおかしいや。この部屋唯一の、腰から頭くらいまでの高さがある四角い窓から涼風が吹き込んで、髪の毛の先がほんの少し首元をくすぐる。同時に汗ばむ額にひんやりとした感触を覚えるも長くは続かず、余計に己の緊張状態が際立つだけだった。ねっとり熱い呼気が口内を通って、たった今自分が吐いたものなのに気味悪く思ってしまう。手で覆い隠し、静かにもう一度吐く。生温い息が手のひらを広がる。治らない。仕方ない、だってすごく疲れている。


「どうかしましたか?」


 城の最上階、六畳一間の部屋の入り口、半分を閉めた襖に右肩を寄せ立膝で控える宗三くんがこちらを向いた。宗三くんはここに来てからずっと、完全に腰を下ろすことはせず、片膝をついていつでも立ち上がれる体勢でいる。腰に差さった自分自身に手をかけ、有事になればすぐさま抜刀するのだろう。この部屋に面した廊下と、見えない階下までもに神経を張り巡らす、宗三くんのこういう姿はあまり見慣れないので、あまり見ないようにしていた。きっと彼もわたしに見られたくないと思う。だのに、そうせざるを得ない局面に置かれているのがやりきれない。
 ずっとこちらを見ることのなかった宗三くんと、今、二人きりになって初めて目が合った。左に跳ねた髪の毛の影から蒼い瞳が覗く。それから、緑と合わせて一緒に細まる。


「なんでもないよ」
「そうですか。のんきですねえ」


 そう言うなり目を逸らし、さっきと変わらず襖の陰から通路への警戒を再開する宗三くん。間伸びした語尾にも関わらず、空気はずっとピンと張り詰めている。
 今のわたしはのんきそうに見えただろうか。言われてみれば確かに、口に手を当てて、まるであくびでもしているようだ。この戦況でそれは、大層のんきな奴だ。宗三くんでなくても呆れてしまうだろう。
 窓から微かに届く唸り声、刀と刀がぶつかる音。戦いがこんなに長引くとは想定外だった。けれど、ようやく引けそうだ。一番に取り返した城を中心に敷地の塀まで広げた自分の結界にいる残敵数は逐一把握できている。でも、本丸のそれとは勝手が違うのですごく疲弊してしまう。今のところこちら側にひどい傷を負った刀剣はいない。先ほど城内への敵の侵入を感知したけれど、国俊くんと薬研くんが当たっているから、最悪ここまで来られても大丈夫だろう。
 わたしの護衛役に残った宗三くんにはさっき、「ここまで攻め込まれる前にあなたは本丸に帰ってください」と言われた。けれど、結界が消えてしまうし、よその部隊を確実にこの座標に喚ぶには審神者がいたほうが間違いないので、宗三くんには申し訳ないけれど首を横に振った。
 階下から一際激しい戦闘音が響く。それから、タタタッと軽快な足音が二つ、近づいてくる。宗三くんが刀の柄から手を離し、布擦れの音と共に立ち上がる。最上階に身を潜めるわたしたちの前に姿を現したのは、よく見知った二人だけだった。


「こっちは無事か?」
「ええ。ご苦労様です」
「増援は五分後に来るよ。座標は門前にしてもらった」
「挟み撃ちだな。了解した」
「押し出さなくていいってことか。主さん、城の中はもういないよな?」
「うん、いないと思う」
「宗三はまだ保つか?」
「心配には及びません」
「そんじゃ、外でもうひと暴れすっか!行くぜ!」
「おう。大将、顔出すなよ」


 うん、と頷くのを確認するや否や、二人はわたしのすぐ横を通り抜け、窓から外へ飛び出していった。見送るには薬研くんの忠告が真新しすぎたため、四つん這いで窓際から離れることしかしなかった。宗三くんも警戒を解いたのか、入り口から離れわたしの隣まで来ると着物を折りながら膝をついて腰を下ろした。
 ふう、と重く吐いた息はわたしと同じくらい生温いのだろうか、と考える。問うたら最後、本当にのんきですね、と呆れられてしまうに違いない。


「宗三くんありがとう」
「礼なんていりませんよ。まだ終わっていませんし。ここに残ったのは、あなたのためだけではないので」
「うん。帰ったらすぐに治す」
「他の刀を先にどうぞ」


 あしらうような言葉のあと、桃色の袈裟を自分の元へ引き寄せる。それが右の脇腹を隠す仕草と同じだったものだから、装束の下で今も彼を苦しめる傷口を想像してしまう。礼を受け取りたくない理由がそれならば、奇襲を受けたのが偶然彼だったというだけの話だ。部隊のみんなは無事だろうか。散開する前は無傷だった。さっき見た二人も大丈夫そうだったな。結界内の霊力の揺れは伝わってくるけれど、詳細まではわからない。無事なら無事なだけ良い。


「こんなに戦況が荒れたの、久しぶりだな」
「あなたが珍しく出陣したいだなんて言うからじゃないですか?」
「だってそういう指令だったんだもの。やだな宗三くん、まるでわたしが厄病――」


「なんでもない」口を噤んで俯く。神さまはいる。すぐそばで体温を持ち息をしているのだ。刀を振るう。怪我をする。そばに寄り添う。守る。わたしなんかが彼らの領域に達することはできない。
 そういえば、宗三くんが自分からそばに来てくれるの、随分と珍しいことだ。
 額から伝った汗が目に入りそうになって、袂で拭う。目に見えない自分の霊力がじわじわと削られているのを感じる。あと五分と少し、撤退まで保てばいい。帰ったら、宗三くんを治して、そこまでできたらどうなってもいいや。
 睡魔への怯えから気を紛らわせるように辺りを見回すと、部屋の隅に置いた巾着袋が目に入る。わたしが本丸から持ってきたものだ。いざというときのお守りや薬、食糧が入っている。食糧、食糧といえば。


「宗三くん、終わったらみんなでドーナツ食べよう。たくさんあるから」
「は?」


 思い出したことをそのまま宗三くんに伝える。疲れたみんなへの労いと体力回復にぴったりだ。最悪わたしが保たなくても、宗三くんに伝えておけばみんなに渡してくれるだろう。
 どんなものか見せようと部屋の隅へ手を伸ばそうとして、余計な体力を使うのはやめようと思い直す。宗三くんの声が怪訝だったことには気付いていたけれど気にせず見上げると、案の定、わたしを見下す眼差しと合う。


「持ってきたんですか?この時代に?」
「うん。たぶん大丈夫だよ。丸いやつだからお団子とか饅頭に見えるもの」


 ボールの形のあんドーナツだ。ころころとたくさん、紙袋に入っている。巾着袋に入れる際思案して出た結論をそのまま述べると、彼は瞬く間に眉をひそめたと思ったら、大きめの溜め息をついた。特大の呆れと共に今日の疲労をすべて吐き出すかのようなそれは、しかし残念なことに、すっかり慣れてしまったわたしには屁でもない。


「知りませんからね。というか、遠足じゃないんですよ。……どうして自分の主にこんな注意をしなければならないんだか」
「長谷部が直前に買ってきてくれたから、つい持ってきちゃった」
「彼もまさか出陣先の食糧にされるとは思っていなかったでしょうね。知られたら怒られるんじゃないですか」
「……うん」


 呆気なく、言葉に詰まってしまって、わたしは卑怯なものだから、これで話が終わった風を装うことにした。逃げるように目を逸らし、手持ち無沙汰に正面の窓を見上げる。この角度からだと見えるのは四角い空だけだった。今もときおり爽やかな風が吹き込んでいる。城下で刀同士がぶつかり、血が流れているとは到底思えない風だ。何も知らなければ、気持ちいいと言っていただろう。本丸にいるときの宗三くんもときどき外で空を見上げては感嘆することがあるけれど、こういう気持ちなんだろうか。でも厳密にいうとここは外じゃないからなあ。
 共感が伝わったのかそうでないのか、わからないけれど、隣の彼はわたしを見つめて、「ああ」と何か得心したようだった。


「彼はそうでしたね。なんですか?それ。反抗心からの行動ですか。馬鹿馬鹿しい」


 非難するような口調に驚いて振り向く。横顔はわたしを視界に入れてはおらず、同じく窓の外を見ているようだった。わたしの煮え切らない返答でも、宗三くんには本意が伝わってしまったらしい。しかもなぜかご立腹だ。まさかドーナツ一つでここまで言われるとは思っていなかったので困惑してしまう。
 長谷部がわたしを絶対に怒らないことが、宗三くんにはそんなに腹立たしいことなのだろうか。宗三くん、わたしと長谷部のことなんかどうでもいいだろうに、どうしたんだろう。
 それとも何か、他のことが気に障ったのだろうか。虫の居所が悪いのかもしれない。思い返してみても、残念なことに心当たりしかない。この任務、宗三くんが負傷し、みんなに気遣われる形でわたしの護衛に残ることになってから、彼の気に障ることしか起きていない気がした。ただでさえ宗三くんはわたしのことをすきじゃないのに、怪我をして、気遣われて、その上わたしと一緒にいなければならないなんて、あまりにもむごい。実はわたし、宗三くんの気に障らない言葉をかけられた試しがないのだ。
 目線を泳がせ俯いたタイミングで、時空の歪みと霊力を察知した。宗三くんも同じようで、立ち上がろうとしたわたしを片手で制したあと、自分は立ち上がって窓から城下を見下ろした。「来ましたよ」彼の台詞で、救援要請したよその本丸の部隊が到着したことを確信する。少なくとも敵側の援軍や検非違使などではなくてよかった。ほっと胸を撫で下ろす。
 見上げると、窓辺に佇む宗三くんの後ろ姿が見える。見事な袈裟が血や泥で汚れてしまっている。でも動きはさほど固くない。傷口をわたしが診ることは許されなかったけれど、薬研くんや獅子王くんが診て撤退を提案しなかったから、そこまで深い傷ではないのだろう。霊力も安定しているから、きっと自由に動ける。宗三くんは、わたしとここにいるのと戦場で戦うの、どちらが気楽なんだろう。すきなほうに行っていい。なんなら、どちらでもないところで休んでもらってもいい。


「宗三くん」
「なんです?」
「ここまで来たらわたしは大丈夫だから、宗三くんは自由にしてていいよ」


 口にした途端、とてつもない後悔に襲われた。背後に殺気を帯びた誰かが立っているかのような恐ろしさに背筋が凍る。けれどそんなものはもちろん錯覚で、なんでそんな錯覚を起こしたのか理由がわからず、勝手に身震いした身体に首を傾げそうになる。
 再度見上げた先、影になった宗三くんの表情が、ない、ように見えた。


「そんな指示に従うわけないじゃないですか」
「……でも」
「今の僕は、あなたに仇なす敵と差し違えてでもあなたを守らないといけないんですから」


 先ほどと変わらず見下すような眼差しに安堵すら覚える。気のせいだった。この戦いで脅威はもう来ないと思うよ、言おうとして、楽観視できる立場ではないことが身に沁みる。代わりに、俯いて、ごめんなさいと謝罪の言葉を口にする。
 いつも過去に囚われている宗三くんは彼の言う通り、どこにも行けないように見える。せめてわたしはと思うのに、いつでもすきにしていてほしいのに、置かれた状況や課された使命が許さない。自由にさせてあげられなくてごめんなさい。


「あなた如きが僕を自由にできるなんて、思い上がらないでください」


 そう、できない。きっと本当の自由を宗三くんに与えることはできない。どうせわたしは彼の袂をしっかり握っておきながら、その手で、まるであなたを解放する宗教家のように、「すきにしていいんだよ」と白々しく言葉を吐くことしかできない。おままごとみたいなものだ。宗三くんはわかっているから、適当なことを言うわたしをいつも憐れむように見下ろすのだ。


「あなたは僕と同じなんですから。僕たちがここから逃げることなんて、できないんですよ」


 宗三くんの背後に広がるのはどこまでも青い空だ。なのに、さっきより狭く感じる。ああこれこそ、宗三くんの見ていた空なんだ。これこそ正しい共感だ。閉じ込められている、わたしたちきっと死ぬまで逃げられない。