「どこでもいいよ」って言ったら、山姥切くんは顔を一層ぎゅうっと歪めて、返事の代わりにわたしを噛んだ。


 泥の沼から浮かび上がるようにのろのろと重い身体を持ち上げる。知らない間に文机に突っ伏して寝ていたらしく、動かそうとすると首や背筋が痛かった。机上の半紙はぐしゃぐしゃに皺が寄ってしまっていて、やらかした、と思うと同時に溜め息が漏れる。まったく堪え性がないものだ。もしかしたらまだ寝ぼけてるのかもしれない。目を開ける直前まで見ていたはずの夢は、もう遠くて思い出せないけれど。
 でも、なにか、いい夢だった気がする。誰がいい気持ちにさせてくれたんだろう。目を閉じて感覚を思い出しながら、凝り固まった左肩を解そうと手を置く。


「いたっ」


 置いた場所から、ちくっと刺されたような、ぼこっと殴られたような刺激が広がる。一瞬で消えるはことなく、知覚した途端にじんじんと痛みを増していく。咄嗟に手を離し、躊躇いなく桃色の浴衣をめくる。下に着ていた肌襦袢もずらし肩口をあらわにしたものの、白い布地にほんの少しついた血を確認できたのみで肝心の患部は見えない。もっと首に近いところだ。
 ならばと膝を使って鏡台に寄れば、鏡面に映った自分の左肩、首との境目くらいのところに、栗くらいの大きさの歪な円を描く内出血の痣と、それに重なるように三箇所ほど小さな傷があるのがわかった。傷口からはじわじわと血が吹き出している。普通に生活していたらできるはずのない位置と形状の怪我が、今まさに出現した事実に背筋が凍りつくのを感じる。とにかく、と近くのちり紙を二枚取り、一枚で拭き取ってから、もう一枚で傷口を覆い隠す。痛みは、動けないほどではなく、じくじくという程度だ。血が止まってしまえば生活するのに支障ないだろう。まさかこのくらいで泣くまい。馬から落ちたときの痛みに比べれば可愛いものだ、と丸くなっていた背筋を伸ばす。

 可愛いものだ、で思い出す。ハッと息を飲む。――山姥切くんが戻ってくるぞ。

 今日の近侍を任せた彼は誘われた手合わせのため席を外している。今朝、「時間になったら少し外す」と言っていたけれど、見送ることなく眠ってしまったので、いなくなってからどのくらい時間が経ったのかわからない。でも彼のことだから、羽目までは外すことなく、そのうち戻ってくるだろう。
 傷を押さえた手を離す。ちり紙に血が滲んでいる。思いの外出血の勢いがおさまらない。傷口は大きくないけれど、深く切れているのかもしれない。このまま服で隠せば誤魔化せるか、と逡巡して、きっと無理だ、と思う。浴衣まで汚してしまうのは忍びない。
 逃げよう!出た結論に対して行動は早かった。新しいちり紙を何枚か肩に当て、肩が隠れる程度に身だしなみを簡単に整える。患部に当たって汚さないよう浴衣をずらして着ているせいで肌着が見えてみっともないし、どうしても首元からちり紙が見えてしまうのは仕方ない。それから、ごみをくずかごに突っ込み、使われていないちり紙の束を適当に掴んで部屋を飛び出した。

 庭に面した廊下に出た瞬間、右方向から歩いてきていた人影が視界に入ってしまう。咄嗟に振り向く。影から覗く目と合う。


「あっ」


 反射的に身を引いたら、一瞬手の力が抜けてしまった。手元からちり紙が離れる。はらはらと縁側に舞う、白くて柔らかいそれらを慌ててしゃがんでかき集める。


「何かこぼしたのか?」


 歩み寄ってきた山姥切くんが向かい合うように片膝をついた。太ももを守る草摺を後ろにやり、自分を覆う布切れは構わずふわりと床板を隠す。山姥切くんという刀は自分を卑下することが多いけれど、所作は緩むことなくいつも落ち着いていて、どことなく高貴だから、はっと見惚れてしまう。穏やかな面持ちで自分の部屋の窓辺に座って外の風景を眺めている姿なんて、君が望むのならば、ずっとそうしていていいんだよ、と言いたくなる。山姥切くんをだらしないと思うことがほとんどない。本人に努める意識がないものだから、そういう本質なんだろうと思っている。
 ただ、今、わたしがちっとも動けないのは、彼に見惚れているからではないのだけれど。
 山姥切くんの手が散らばったちり紙を撫でるように集めていくのを、息を飲んで見ていた。首元が冷たい。でもすぐそばの肩が熱くて仕方ない。「雑用なら俺にやらせればいい」低い、湿度のある声に、密かに背中に冷や汗をかく。例えるならば、たった今人を殺した凶器を隠し持ったまま、知り合いに会って、元気?最近何してる?と世間話を振られたような、居心地の悪さ、これが最後と思わせる、諦念。目の前にいるだろう山姥切くんの溜め息が聞こえる。何に呆れたのか、わからない。


「? おい」


 自分でも驚くほど身体が跳ねた。弾かれたように顔を上げる。同じようにこちらに顔を上げていた山姥切くんの青緑色の目が、思いの外近くに見えた。被った布で影がかかっていたものの、外の柔らかい日差しが、彼の瞳はきれいなのねえと、ほめているようだった。
 その、せっかくの瞳が、ほんの少し左に動いた途端、見開かれる。眉をひそめ、開いた口がわなないている。


「あんた、血が……」


 そんな顔をさせるつもりじゃなかった。口をつきかけた台詞より早く、立ち上がった彼が横をすり抜た。今しがたわたしが出てきた部屋の障子に手をかけ、中を覗き込む。
 もちろん、代わり映えのないただの部屋だ。何も起きてはいない。山姥切くんが危惧した惨状は想像できるので、いっそそうであればどんなに、とこいねがってしまう。立っている彼に見えないように、こっそり襟から肌着の下に指を入れる。血、ついてしまってるのかもしれない。


「何があった?あんたは眠っていたんじゃなかったのか」
「そう、そうなんだけど」
「だったら――」


 山姥切くんが困惑した声を降らせるのを、俯いたまま甘んじて受ける。大した怪我じゃないと言うのは山姥切くんへの侮辱になってしまうだろうか。ふと思いついた考えに、どうしてだろうと訝る。べつに、山姥切くんは関係ないのに。傷口を服の上から触れる。熱を持ったままではあるけれど、不思議と痛みが引いていっている気がした。


「とにかく、部屋に戻るぞ」


 山姥切くんの指示に頷き、拾い上げたちり紙を持って自分の部屋に戻る。外に面するように置かれた文机。しわくちゃになった半紙もそのままだ。山姥切くんが部屋中に目を凝らしたって、見えないものが見えるはずがない。わたしにだって見えない。
 山姥切くんはまだ何か言いたそうだったけれど、口をつぐんで部屋の隅に置かれた棚へと歩いていく。目で追いながら、言われる前に座布団に腰を下ろす。肩を覆う衣服をすべてめくると、一番上のちり紙まで血が滲んでいるのがかろうじて見える。多分これを山姥切くんに見られてしまった。まだ乾いていないらしく、簡単に剥がれた。血が全体に広がり傷口がわからなくなっている。桃色の浴衣にはついていない。けれど、肌着は汚れてしまった。
 戻ってきた山姥切くんは手に持った救急箱を脇に置き、向き合うように腰を下ろした。わたししか使わないそれはさほどごちゃついておらず、開けてすぐのところに使用頻度の高い物がしまわれていた。薬と湿布の下に隠れていた消毒液を取り出した山姥切くんは、右手の手甲を外してから、わたしへ伸ばす。ぴたりと止まる。見上げると、ためらう眼差しと合った。それから、目を逸らし、意を決した様子もなく、肌襦袢に手をかけてさらに少しずらす。


「痛ければ言え」
「うん」


 頷いたまま、自分の膝を見下ろす。次第に、冷たい感触、ひりっとしみる痛みがやってくる。ぽんぽんと丸めたちり紙で拭う感覚は気持ちいい。少しだけ、穏やかな気持ちになって、気をやりたくなる。
 目を瞑って、眠る感覚に片足を下ろすと、さっきまでと同じ感覚、つまり、眠っていたとき脳に流れていた映像が、ふいによみがえった。
 視界は何もかもがぼんやりしていて、暗がりにいるようだった。もう何も危険はないのに、そこでのわたしたちは、なぜか息を潜めていた。そうだ、目の前に山姥切くんがいた。ひどく苦しんでいた。あれは、そう、夢の中ではあるけれど、わたしだけの空想ではなく、たしか、もう、半年くらい前のことだ。


「これは……」


 血を拭き取り綺麗になった傷口を見て、山姥切くんが手を止めたようだった。ゆっくりと目を開く。顔を上げると、信じ難いものを目の当たりにして、目を逸らしたいのに逸らせない、かわいそうな顔が近くにあった。歪な円を描いた内出血とほとんど同じ場所に三箇所ほどの小さな傷。そうだ、これが何を示しているか、山姥切くんだけには真にわかるだろう。だってこれを見たことがあるの、わたしと君だけだものね。


「あんた、俺に隠そうと……」
「……ごめんねえ」


 謝罪の声が震えていた。逃げようとした判断はやっぱり間違っていなかった。でも失敗した。山姥切くんはちっとも悪くないのに、半年も前の傷を思い出させてしまうのが申し訳なかった。「ただ寝てただけなんだけどね、どうも引っ張られちゃったみたいでね」言い訳じみた事情を口にするも、山姥切くんの罪悪感が晴れることはないだろう。あのときだって、山姥切くんに非はないのに。

 あのときわたしは、山姥切くんを助けたい一心だった。痛みにもがく彼をわたしに繋ぎ止めたくて、「どこでもいいよ」と言った。本当にどこでもよかった。山姥切くんが縋ってくれるならなんでもよかった。傷だらけの山姥切くんは額に汗を浮かべていたけれど、苦痛に歪んでいる瞳は美しいまま、わたしを見た。それから、力を振り絞るように、肩口に噛みついたのだ。意識が緩みそうになるたび力を入れ直してはわたしの刀であることを証明した。あれは必要なことだった。
 夢の中の追体験を思い出すと心臓がじんじんと震える。傷はもう痛くない。指でそっと撫でると、血がすっかり止まっていることがわかる。それが、今、山姥切くんがそばにいるからだというのが、余計明らかにさせる。こんなことで山姥切くんがつけた傷がよみがえってしまう。


「……だから言ったんだ。俺にあんたの近侍は務まらないと」
「山姥切くんのせいじゃない、わたしが思い出しちゃったから出てきただけなの」


「悲しい気持ちにさせてごめん」山姥切くんはあのときとは違う痛みを堪えるように表情を歪ませていた。やっぱり見られてはいけなかった。水を浴びせられたような後悔だった。どんな手を使ってでも、山姥切くんを苛ませない結果にしなければいけなかった。


「あんただって本当は、俺なんかがそばに控えているのは嫌だろう」
「ううん。そばにいてくれるだけでいい」


 今すぐにでもいなくなってしまいそうな山姥切くんの手を自分の両手で覆い隠す。悲哀のような、後悔に苛まれる冷たい指先を温めたくて包み込む。山姥切くんは空いている片方の手をわたしの傷口に触れないように被せて、そっと、手の甲に自分の額を乗せた。
 それから、願うように、早く消えろ、と呟く。鼓膜を微かに震わせる声に、呼吸をすると目と鼻の奥が熱くなって、眼球に膜が張った。
 山姥切くんが何の憂いもなく、君にこそ宿った心のまま穏やかに過ごせることを願っている。けれど、あの出来事はわたしにとっての救いだから、また見たっていい。きっと一生口にはしない。次に見るときは、君を傷つけないといい。