今日は一度も鍛錬所に行っていないことを思い出したので、慌てて腰を上げ部屋を出た。近侍の加州くんの姿は見えず、そういえば午前は安定くんと手合わせをすると言っていたことを思い出す。呼ぶのは水を差すようで悪い、顕現させるわけじゃないから一人でもいいや。特に迷うことなく判断し、小走りで一目散に目的地へ向かう。
 大部屋の前を横切ると、そこでくつろいでいた彼らが縁側へ顔を出す気配がしたけれど、呼び止められなかったので振り返ることはしなかった。「今、主通った?」「急いでいるみたいだな」遠くのやりとりを背後で聞き、鍛錬所に行きますと心の中で返事をする。もしわたしを探す人がいたら、方向だけでも伝えてくれたらありがたい。思いながら、通路を右へ九十度曲がる、と、進行方向から人影が現れた。


「わっ」
「おっと」


 ばったり出くわした相手とぶつかりそうになったのを、すんでのところで身を引く。反動で後ろへ一歩大きく後退すると、相手はわたしがバランスを崩すと直感したのか、すかさず背中に手を回して支えてくれた。おかげでそれ以上どうにもなることはなく、背中の優しい温もりに、ありがとうと口にしてまっすぐ立ち直す。


「ごめん、気がつかなかった。大丈夫かい?」
「うん。わたしもごめん」


 見上げると、内番服に身を包んだ清麿くんは、わたしから手を離すなり一歩後退した。案じていた様子の彼は、本当にどうともなかったことを理解したのか、安堵の笑みを浮かべたらしかった。そんな、ぶつかりかけたくらいで、何か起きるはずもないのに。清麿くんも心配症なところがある、というのは最近知った。
 それから、彼が今日馬当番を任されていることを思い出した。相方が誰なのかも覚えているけれど、姿は見えないので、今二人がどの工程を行っているのか見当もつかない。
「どこかに行くのかい?」清麿くんの問いかけに、「鍛錬所。お願いしに」鍛錬所の方角を指差しながら答えると、なるほど、と頷く。続いて言われそうな台詞が瞬時に思いつき、釘を刺すべく顔の隣でさっと手を挙げる。


「一人で大丈夫だよ」
「うん?……あはは、うん、そうか。了解」


 きょとんと目を丸くした清麿くんが、それから、口を開けて笑って、わたしのポーズを真似るように手を挙げた。早とちりだったかな、自意識過剰みたいで恥ずかしかったかも。居た堪れなくなり、おずおずと手を下げる。胸の前で手いたずらをしながら、えっと、などと口ごもる。


「う、馬当番、お願いします」
「うん。主は無理をしないでね」


 頷く。鍛刀を小さな刀鍛冶にお願いするだけだから、寝落ちる心配もないよ。皆まで言わずとも伝わるだろう。
 そうだ、馬当番といえば、昨日新しい馬をもらったんだった。思い立って清麿くんを見上げる。何を言われるのかと目を丸くする彼。


「あの、あとでそっちに行っていい? 新しい子の様子見たい」
「ああ、もちろん構わないよ。乗馬の練習もしてみるかい?」
「したいけど、どうだろう。調子が良さそうだったら」


 調子の心配をしたのは、新顔の馬のことだったのだけれど、そうだね、と頷いた清麿くんが誰のことを思って同意したのか、確認しようとして、やめた。どちらであろうともわたしに損はないのに、むしろ確認したとなればその事実こそがわたしを辱めるに違いない。馬か自分かなど、気にもならなかった人を装って、口角を上げるだけに留めるのが吉だと、きっとどこかの占い師も言っている。


「僕でよければ付き合うから、遠慮なく言っておくれ」
「ありがとう。嬉しい」


 親切は心から嬉しい。ほわっと緩んだ頬が自然と笑うのを自覚しながら、当番の仕事が終わる頃に必ず顔を出そうと決意する。手ほどきしてくれるのが清麿くんなのは非常に心強い。きっと緊張することなく練習に励めるだろう。
 夕方ごろ、馬にまたがる自分を想像して、そうだ鍛刀、と我に返る。しかもしっかり清麿くんの邪魔をしてしまった。謝ろうとしたけれど、この場がお開きになる空気はすでにできていたので、余計なことを言うのは無為だろう。それにきっと、清麿くんにも謝らせてしまう。「じゃあ、あとでね」「うん。また」だから簡潔に一時の別れのあいさつを交わすだけ。

 清麿くんは、横を通り抜けるわたしを身体ごと振り向いて見送ってくれた、だろう。視線を背中に受けながら、もし今振り返ったってきっと、双方共に嫌な顔をすることはないと確信できる。ふわり、そよ風が二人を撫でる。春の風を連れてくる。清麿くんはびっくりするほどいい人だから、ときどき、「罪なお人ね」などと言いたくなるよ。