わたしときどきあなたが、ふわっと消えてしまうんじゃないかと、気が気じゃなくなる。


 顔周りで一房束ねた髪の毛が揺れて、ふと、何の花の色だっけ、と考える。障子を開けっ放しだった。そよそよと心地よい春風が執務室を泳いで、いつのまにかどこかへと消えていく。わたしを覗き込んだ清麿くんの背後に広がる木目の天井。顔に見えて怖いと思っていたのに、今となってはどの部分を指していたのかわからない。そんなことで月日の長さを感じる。歌仙くんに言っても、風流だとは言ってくれなさそう。
 三度目の瞬きで、清麿くんの表情がゆるりとほどける。とはいっても、彼の面立ちがきつきつに締めつけられているところは見たことがない。


「おや、眠っていたんじゃなかったんだね」


 縁側に続く障子に頭を向け寝転がっていたわたしをしゃがんで覗き込む、清麿くんに、考える間もなくうんと頷く。清麿くんの前では嘘をつこうとする心意気がすべて無に帰す。わたしは彼に対してあまりに清廉潔白な人然としているから、もしかしたら清麿くんの目には、とてもまともな主に映っているかもしれない。事実との乖離が、わたしと宇宙ほど離れていようとも、そうだったらいいなと思う。
 上体を起こすと同時に清麿くんも背筋を伸ばし距離をとる。彼の位置取る距離感は不思議で、触れようとしたら容易に触れられるのに、決して近くはない。それは、物理的な距離だけでなく、精神的なそれにも通ずる話で、まるでそこにいないかのような、わたしの空想の存在なんじゃないかとまで考えてしまうほどだった。


「ふふ。おはよう、主」


 だってあなた、わたしに都合がよすぎるんだもの。


「おはよう」


 眠っていたんじゃなくて、ちょっと休憩していただけだし、なんなら今朝のご飯のときにも同じ言葉を交わした。わたしたち、今このときに目覚めのあいさつなんて必要ないのに、清麿くんは楽しそうに口にする。わたしも悪い気はしないから、つい、肩をすくめて笑ってしまう。


「手が空いたから、何か手伝えないかと思って来たんだけれど」
「えっと……急ぎのやつはないから、大丈夫だよ」
「本当かい?」


 語尾を上げ、そばの文机に目を落とす清麿くん。もともと政府の刀として顕現していた彼は、わたしの刀としてここで再度顕現した今もその頃の記憶を有している。実働部隊の配属だったため、事務仕事に特別慣れているわけではないものの、経験はあるらしく、頼まれたら一通りのことはやってくれる。だからつい、頼んでしまう。きっとそのうち、歯止めが効かなくなるだろう。
 今日はよしておこう、と理性が働いた。清麿くんはいつだって善意で申し出てくれているのだろうけれど、いつか、ふとしたときに、こいつ何でも頼んでくるな、なんて思われてしまうかもしれない。いやだ、いつまでも、気持ちよく手伝ってほしい。だから今日は遠慮する日だ。
 というわたしの決心を、しかし清麿くんは綿埃をふっと吹き飛ばすように、文机の隅っこに積まれた書類の山を指差した。


「戦果をまとめるくらいなら僕にもできるよ。あれ、そうだろう?」
「う……うん。でも、今日やらないといけないやつじゃないから」
「ということは、今日やってもいいやつだ」


 清麿くんは顎を引いて笑ったと思ったら、文机を挟んで反対側に回り、正座で座った。それから、書類の束を全部まとめて掴んで、とんとんと机の上で端を整えると、自分の向きに直して置いた。床に落ちていた巻物を紐解き、余白が十分にあることを確認するなり作業スペースに広げる。右半分にわたしのスペースもちゃんと残っている。もうすっかり仕事の体勢だ。気後れしながらも、身を乗り出す。


「清麿くん、本当にいいの?」
「うん。夕飯までに進めるだけ進めてしまおう」
「ありがとう……」


 おずおずと机の右端に移動し、座る。途中まで作っていた今日の報告書と向き合う。清麿くんの姿は、視界の左側に間違いなくある。
 彼は、あ、と口を開いたと思ったら、一度立って、壁沿いの棚から乾いた筆を取って戻ってくる。それからまた行儀よく正座する。姿勢の良い彼が、しばらくしたら崩してあぐらをかくことを知っている。その頃のわたしはすでに、足を伸ばしたり、悪い姿勢で机に向かっているのだろう。


「清麿くんは、いつも絶対優しい」
「僕は僕にできることをやっているだけだよ」
「そのおかげで、わたしいつも助かってるよ」
「だったら、嬉しいな」


 ふふ、と笑う。筆を持ったまま、わたしに笑いかける。神さま。撫でるようにわたしの心を穏やかにする。そして、儚い人だとも思う。いなくなったらどうしよう。ふわっとなんて消えてしまわないで、ずっとわたしをたすけてほしいのに。