太陽がてっぺんを過ぎても汗の滲まない、めずらしい陽気だった。すんとさっぱりした空気、ほとんどずっと風が吹いていて、それが洗濯物をよく乾かし、ただし砂が舞い上がることもなく、池の水面をなで、ときどき波紋ができる。きっと畑に行けば、水を浴びた葉たちが水滴をきらきら光らせている。畑といえば、昨日、畑当番の人たちが発端になって、何人かで水を撒くついでに遊んだらしい。知っていたら混ざりたかったけれど、教えてもらったのは夕ご飯後の歓談の最中だったものだから、いいなあと正直にうらやましがるくらいしかできなかった。きっと今日はしないだろう。夕ご飯も冷たいものじゃない。黄色と青色の季節には、本当はまだ少し早いのだ。

 こんな日は、いいやこんな気分のときは、散歩に行こう。そろそろ事務仕事に飽きる時間だもの。正座はとっくのとうに崩れて、太ももがぺたんと畳にくっついてしまっている。長谷部が手合わせに席を立ってしばらく経つ。戻ってきて、無人の部屋だったら、どう思うだろう。わたしには絶対に見せない、溜め息をつくだろうか。書き置きでも残しておこうかと閃いたものの、行き先が決まっていないものだから、近侍を安心させる言葉が一つも思い浮かばなかった。十秒考えて、「休憩中」とだけ。
 こんなにいい天気で、カラッと乾いているというのに、足は外を求めず、廊下に出た途端左折して、スタスタと木の床板を歩いていく。広い本丸を当てもなく歩いていくとどこに辿り着くのでしょう、などと気取った風に顎を上げる。わたしの足だもの、わたしが決めるに決まってる。

 誰もいなくたってよかったけれど、いないわけもなかったのかもしれない。その人は台所の壁に置かれた戸棚の、一番上の戸を、まっすぐに手を伸ばして閉めていた。トン、と控えめに木と木がぶつかる音。入り口から覗くわたしに気がついて、顔ごと向いた目が丸く瞠っていた。右目がパチパチと瞬く。


「めずらしいな、どうした?」
「邪魔だった?」
「いんや。ちょうど終わったところ」


 そう言って、獅子王くんは両の手のひらを広げて見せた。ならばと遠慮なく立ち入り、彼のそばに寄ると、色白の手がほんのり赤くなっているのがわかって、何をしていたのかを察するに至る。顔を上げ、口を尖らせてきょとんと見下ろす顔と合わせる。


「片付け、ありがとう」
「なんだよ。へへ、どうもな」


 にかっと気持ちよく笑う獅子王くん。昼ご飯の片付けはこんな時間までかかるものだと、知っていたけれど失念していた。いけないことだ。日々、本丸を回してくれているみんなへの感謝の気持ちを忘れてしまうことは、いけない。目の当たりにしないと身に沁みないなんて、嫌な奴だ。バチが当たったって仕方がない。
 まさか獅子王くん一人が当番のはずがないから、他の人と時間を分担したのか、そうでなければ先に上がれと残りを引き受けたのだろう。とにかく、調理台や作業スペースは綺麗に片付いていて、すぐにでも夕ご飯の準備を始められそうだった。獅子王くんは大らかだけれど、大雑把ではないらしい。とある血液型の典型的な気質を思い出しながら、神さまに何を、と自嘲する。


「で、何しに来たんだ?昼飯はさっき食ってたよな」
「うん」
「腹減ったのか?」
「違うよー」


 あははと肩をすくめる。てっきり冗談を言われたと思ったけれど、獅子王くんは、そうか?と手を顎に当てて首を傾げたので、本気だったみたいだ。もしかしたら、ご飯を食べてすぐ小腹を満たしに誰かが台所にやってくることは、日常茶飯事なのかもしれない。


「主、いつもあんま食ってねえじゃん。あれでよく夜までもつよな」
「みんなと比べたらだよ。みんなよく食べるから。あとわたし、あんまり動かないから」
「ふーん……」


「まあ、そっか。主、女の子だもんな」一人納得するように呟いた獅子王くんを見上げて、それから、俯く。急にそんなこと言われると、なんだか照れてしまう。大して女の子を象徴することでもない、よ。言おうと思ったけれど、変な顔にならないよう平静を装う前に、獅子王くんが何かに気付いたらしく、あ、と口を開いた。


「そうだ。主、ちょっとなら食える?」
「えっ?」


 言うなり、踵を返した獅子王くん。目で追うと、大型の冷凍庫の前に立ち、迷わず上の蓋を開けた。一度掻き分け、すぐに何かを取り出す。透明な袋に一本ずつ包まれている、薄い木の棒に刺さった黄色と水色の細長いそれは、たぶんアイスキャンディーだ。


「昨日、店に寄ったとき買ったんだ」
「へえ……かわいいね」


 獅子王くんは得意げに、右手に持った二本をわたしに見せる。淡い二色のアイスキャンディーは、早くも室温との差に袋を曇らせていた。


「他にもいろんな色があってさ、もう夏だなーって思って、この色にした」


 昨日は間違いなく夏日だった。遠征帰りに街に寄ったのなら、アイスキャンディーを買いたくなる気持ちはよくわかる。でも、昨日のうちに食べなかったんだなあ。考えていると、「帰ったら庭で水遊びしてたから混ざったんだよ。そしたら、食べるタイミング逃しちまってさ」顎に手を当て回顧する獅子王くんに、なるほどと頷く。
 それから獅子王くんは、夏の色を一本ずつ両手に持ち直し、今度はわかりやすくわたしに差し出した。目を丸くして見上げる。


「ほい。先に選んでいいぜ」
「いいの?」
「おう。主は女の子だからな」


 またまた得意げに口にした言葉に、一瞬呆気にとられ、それから、やっぱりどんな反応が正しいのかわからないまま、心のまま、むずむずと湧き上がる嬉しさとか、感謝に破顔する。手を伸ばした先の黄色は、パイナップルか、レモンか、はたまたまったく別の味なのかわからなかったけれど、なんとなく今は、黄色を選びたい気分だった。