鶴丸さんが任務で少し怪我をしたと聞いたときは、正直、めずらしいこともあるものだと思うくらいで、ちっとも心配などしておらず、実際廊下で出くわしたその人が普段より乱れた装束のまま、よっぽど居心地の悪そうに、眉と目と口とであべこべの表情を作っているのを見たって、やっぱりなあと思うのだった。

 夕ご飯とお風呂を済ませ、月明かりだけを頼りに大広間から離れた長屋の前をとぼとぼ歩いていたら、彼が向かい側からやってきた。暗がりの中、鶴丸さんはわたしを見とめるなり、即座に立ち止まった。こちらが相手を鶴丸さんだと認識するより早かったものだから、その行動に彼らしかぬ違和感を覚えることはできなかった。
「こんばんは鶴丸さん」歩みを止めず近づく。彼は夕方帰城した第二部隊の一人で、負傷の度合いについては部隊長の長谷部から聞いていた。とはいえ、だから何ということもなく、どんどん近づいて、鶴丸さんの出で立ちや表情が見えてくるようになって、ようやく、いつもと違う彼の様相に気がついたのだった。
 彼というのは普段、比較的表情がはっきりしているほうだと思っていたけれど、今、眉根を寄せ、目を逸らし、けれど口角は上がっているのを見ると、神さまも後悔をするのだなあ、となんだか感慨深く思う。ここに来ていろいろなことを知る。わたしは、心を痛めるような事態ではないと認識しているけれど、まさか放っておくほど冷たい人間でもない。無為に部屋を出ただけで、強いていうならば夜の散歩でもと考えていた。自分のこのあとの予定が真っ白であることを頭の中で確認したのち、改めて彼と対峙する。
 鶴丸さん。一歩歩み寄る。ぎし、と乾いた床板が軋む。彼は拒絶などせず、ただし、いつもみたいに軽快に近寄ってもこなかった。


「手入れ部屋、行けるよ」
「……なるほど」
「え?」


 緊張感すら張り巡らせていたと思いきや、鶴丸さんはおもむろに顎に手を当て、しみじみといったように深く息を吐いた。意図がまるで汲めず、首を傾げてしまう。それから、目線を下げる。彼の足は床板にぴたりとついたまま、動き出しそうにもない。


「いや、なに。きみはこういう気分だったのかと思ってな」
「気分?」


 いつの話?聞こうとしてすぐ、ああつい最近のことだ、と見当がつく。たぶん、鶴丸さんに強引に慰めてもらった日だ。なんでそう思ったのかと問われたら、それしかないからと答える。早速、あの日のことを回顧して写した薄いシートを、今の鶴丸さんへそっと重ねてみる。けれどうまく重ならない。わたしと鶴丸さんが似てないせいだ。
 訝る眼差しを送ってしまったからか、鶴丸さんはわざとらしく肩をすくめてみせた。あっ、と嫌な予感がして、とっさに口を開く。


「あれ、嫌じゃなかったよ!」
「ああ、俺も想像していたより嫌じゃあない。だが、こんな姿、きみに見られたくなかったのも本当なんだ」


「だからきみもあのとき――」言いかけて、鶴丸さんが目を見開く。わたしを映しているのはわかっていたけれど、何が彼をそうさせたのかまでは、わからなかった。
 ただ、わたしは今、漠然と悲しい気持ちにはなっていて、べつに鶴丸さんの言葉に傷つく部分はないはずなのに、まるで、拒絶、後悔、鶴丸さんからされたくないことをされたみたいに、今日までの自分がぬか喜びをしていたかのような、心にぽっかりと穴が開いた気分だった。
 今日はもう部屋から出なければよかった。さっさと明日の支度をして寝てしまえばよかった。であれば、鶴丸さんに、見られたくなかったなんて思われることもなかった。
 すまん、と鶴丸さんが謝った気がした。ハッと顔を上げる。目を伏せ、本当に申し訳ないと思っているような肩に、まためずらしいものを見た、と思う。ふう、と一つ息をつく。


「手入れ、頼めるかい」
「うん」


 もちろんと頷く。拍子に、鶴丸さんの足が動いた。手入れ部屋は彼の進行方向にある。わたしが先導しようと踵を返すと、構わず横を通り抜けられた。追い越そうかついていこうか、判断に迷った一瞬の隙に手を取られ、引っ張られる。「わっ」もつれるように足を動かし慌てて彼を追う。その間にも彼の指はわたしのそれに絡まり、あっさりと、手のひら同士が密着するように握られた。わたしの手の甲に這う、鶴丸さんの指先は冷たいのだと、なぜかこのときしっかり認識した。


「自分本位は悪いことじゃあないと思っているんだ」
「誰のこと?」
「きみのことだとも思いたい」


 首を傾げわたしを見遣る鶴丸さんの微笑みが、月の光の影になって、溶けていきそう。
 わたしは、自分本位な人間だと思っている。相手の事情を気にせず、そばに来てほしいし、構ってほしいと思っている。だからやっぱりあの日、どんな意図があろうと、鶴丸さんがへこむわたしの顔を覗きに来てくれて、悪かったなんてことはないのだ。握り込まれた手に力を入れる。気付けば、ぽっかり空いた穴なんてすっかり見えなくなっていた。鶴丸さんの手が覆い隠してくれた。


「わたしはよくあることだけど、鶴丸さんは滅多にないからめずらしい」
「ははっ、たしかに主はよくへこんでいるなあ」
「鶴丸さん、本当にわたしに会いたくなかったの?」
「どうだろうな。きみの顔を見ていたらわからなくなってきた」


 どのみち手入れにはきみが必要だしな。空いたほうの手を顎に当て上を向く。横顔は、あべこべな表情ではなく、全部で楽しい気分になっているのがわかる。それから、ふんと、得意げに笑う。


「何にせよ、次があったとしても、またきみの顔を見たくなるんだろうな」


 それはわたしがへこんだときだろうか、鶴丸さんがへこんだときだろうか。少なくとも、きみもすきにしていいと言われてるみたいだから、いいや。