「へくしゅっ」


 鼻と口を袖で覆い隠したものの堪えることはできなかった。そばのちり紙で鼻をかみ、屑籠へポイと投げ入れる。ずずっと啜る。風邪ひいたかも。やっぱり昨日、光忠の上で寝落ちてしまったのが原因だろうか。朝起きたら自分の布団で寝てたから、大丈夫だと思ったのに。


「風邪かい?」


 振り返ると光忠がわたしを見ていた。手合わせから戻ってきた彼は先ほど、戦績を見返してもいいかと聞いてから棚から巻物を出していた。やや脚を開いた姿勢で正座をしながら、手にしていたそれを太ももに置いている。視線を一度落とし、それから光忠へ上げる。


「違うと思う」
「気遣わなくていいよ。ごめんね、昨日すぐ布団に運んであげなかったから」
「そうなの?」
「うん」


 今朝、光忠に会ったとき彼がわたしを部屋へ運んでくれたことを聞いた。けれど、「伽羅ちゃんが起きて声をかけてもらってから運んだんだ」そんなことを日も暮れはじめた今頃聞かされる。そうだったんだ、知らなかった。べつに憤慨も落胆もしないので、へえとだけ返す。たとえそれが原因で風邪を引いたところで、自分のせいだからなあ。早めにお風呂に入って寝てしまえば事足りることだった。
 ふっと、戦績の記された巻物へ目を落とす光忠。けれどまだ話は続くだろうことを直感し、わたしは硯に筆を置いて彼へ身体を向けた。


「君が眠っているのを見るととても落ち着くんだ」


 ぽそっと呟かれた言葉はわたしの耳にもちゃんと届いた。意味もちゃんと理解できた。感想は、特になかった。


「そうなの?」
「ああ。だから僕のせいで、ごめんね」
「怒ってないよ」
「わかってるけど、ね」


 ね、と言いながら光忠はちっとも悪びれていなかった。伏せた目が巻物の文字を追っていないこともわかった。悪いと思ってないのに光忠はどうして今謝ったんだろう。わたしが気分を害してないってわかってるはずなのに。
 首を横にひねると開け放した障子の外に空が見えた。夕暮れはもうすぐやってくるだろう。誰かの声や足音は、遠くから常に聞こえていた。首を正面に戻す。まだ目を伏せたまま、わたしを見ようとしない光忠に聞きたいことがあった。


「ねえ、光忠は、わたしの何を知ってるの?」


 昨日のことを言った。目線をあげ、わたしを射抜く。けれど怯むことはなかった。ちっとも怖くない。


「僕たちのこと、神様だと思ってる」
「うん。事実だよ」
「そうだね。でもその覆らない認識が、もどかしくさせるんだろうね」
「……そうなの?」


 顔を上げた光忠は薄く笑っていた。目が細められる。そうだよ、って言っていた。


「光忠はどうしてほしいの?」


 全然わからない。自分の頭じゃ考えられない。尋ねることしかできない。この本丸に住まう者たちはおしなべて刀剣に宿った付喪神たちだ。彼らをわたしが具現化した。だから本当は眠らないしご飯も食べない。いくら人みたいな見た目、人みたいな心を持っていても目の前にいるのは神様なのだ。わたしとあなたたちは違うものなのだ。
 もどかしいのは誰だろう。光忠は少しももどかしくなさそうに、静かに、慈愛や、嬉しそうですらある笑みを浮かべながら、


「一生眠っていてほしい」


 ひどいことを言った。


 着ていた着物を脱ぎ終え、淡い水色の浴衣が入った籠の隣に適当にまとめて置く。引き戸を開けてお風呂場に踏み入れると、気温や湿度が一気に上がったのを体感する。石畳の床は毎日誰かが掃除してくれているのでいつもざらざらの肌触りを保っている。もくもくと湯気の漂うお風呂場をペタペタと歩いていく。誰もいない。当たり前だ。夕飯前のこの時間はわたしだけに割り当てられてるのだから。誰かいたら、さすがに恥ずかしい。
 今日の近侍をお願いした光忠はあのあと、夕飯の支度に席を立った。すっかり執務のやる気は削がれていたのでついていこうと腰を上げると、光忠に「主も作るかい?」と聞かれた。それが厚意だとすぐにわかったわたしは反射的に頷こうとしたのだけど、やめた。


「ううん。手伝うのは、加州くんと約束してるから」


 前にした約束のことを思い出したのだ。だから今日は我慢。そう言ったら光忠は、「そう、」とだけ返した。無機質な声音に不思議に思ったわたしは見上げる。けれど、光忠の表情を読み解くより先に顔を背けられてしまった。


「じゃあ先にお風呂に入ってきな。時間かかっちゃうから」


 それだけ言って光忠はわたしの部屋を出て行った。追いかけようとしたけれど、彼が追いかけてくるなと言ってるのがわかってしまって、足は動かなかった。気遣いに包んだ何かを見せつけられた気がした。障子に手をかけたまま、台所へ向かう光忠の背中を目で追いかけることしかできなかった。

 檜の湯船に浸かりほっと息を吐く。でも、光忠の言う通りにしてよかった。やっぱり体調は優れないから、今日は夕飯をちょっと食べて寝てしまおう。せっかく作ってくれたご飯を残すのは気がひけるけど、近くの誰かにあげよう。席はいつも自由なので空いてるところに座ると誰かしらが隣に来てくれる。みんな優しい、いい神様たちだ。そういえば今日鍛刀してもらった刀も光忠だったなあ。もちろん顕現させられなかったけど、なんとなく自室に持って帰ってきてしまった。昨日の夜、正確にはもう今日だったけど、あのときの光忠の安心感は計り知れなかった。光忠に抱き寄せられたまま眠るのはとても心地よかった。だからかなあ、今日は燭台切光忠を抱きしめながら眠りたかった。あとでそう言おう……

気付いた時には身体から力が抜けていた。急速に思考が鈍る。カクンと頭が前に倒れる。


あ。