「本丸の近くで花畑を見つけたよ」と手を引く彼に連れてきてもらったのは、もう二週間くらい前のことだろうか。元いた時代との生活リズムが違いすぎるせいか、最近やたらと時間が経つのが早い。同じ毎日は過ごすまいとしながらもできることは同じことの繰り返しばかりで、気がつくとすいすい時が過ぎている。部屋から外の夕暮れを見遣り、今日もじっとりとした不甲斐なさが、布団みたいに覆いかぶさる。大した成長もないまま、また一日が終わるのねえ、と誰かに嘲られた気分になる。
 もしかしたらあのとき、加州くんがわたしをここに連れてきてくれたのは、彼なりの粋な計らいというやつだったのかもしれない。


「あるじー」


 噂をすれば影、加州くんだ。春の陽光に意気揚々と咲き乱れる花々の中、座り込むわたしの元へやってくる。加州くんは目の前で立ち止まると、肩をすくめて呆れたように「やっぱりここにいた」と言ったあと、ちょっと嬉しそうにはにかんだ。つられて笑う、のん気なわたしは、どうやら花畑逃亡の常習犯と思われているらしい。情けない印象を否定したくなるけれど、ちょっと仕事に疲れるとすぐに逃げたくなるので、あながち間違いでもない。
 加州くん、てっぺんを超えてしばらく経った、背の低い太陽を正面にしているものだから、表情はよく見える。機嫌はちっとも悪くなさそうで、よかった。何か言われる前に、腰に当てた彼の手へ自分のそれを伸ばすと、彼はわたしを引っ張りあげようとしたらしく、手のひらを上に向けて掴もうとした。それをやんわりと断り、下から彼の手を握る。同じ意図だ、引っ張りたかったのだ。言葉がなくとも理解した加州くんは、ちょっとだけ表情を緩ませたけれど、すぐにきりっと引き締め、「だめだよ」と言った。


「鯰尾たちが帰ってきてるよ。玉鋼とかたくさん持ってたから、迎えてあげて」
「わ、そうか。それは帰らなきゃ」


 鯰尾くんたちは、昨晩に遠征へ出立した部隊だ。長旅で大変お疲れのことだろう。早く報告を受けて、夕ご飯までゆっくり休んでもらわなければいけない。さすがにそのくらいはわかる。
 本当は、加州くんに隣に座ってもらって、同じ風景を眺めながら、ここを教えてもらったときの感動をもう一度伝えて、お気に入りの場所になったことを話したかったのだけど。能天気なことを想像する。審神者という役目は忙しい。本来は、逃げている暇なんてないのだろう。真面目に取り組んだら、窮屈な仕事に違いない。きっとそういう意味では、わたしに適性などない。でも、誰かに必要とされる感覚はいつまで経っても心地のいいもので、わたしがいないと回らない場所があるという、何とも甘美な世界に浸っている気分。そんな、自分にとって都合のいいシステムができる事件が起こるとは。そりゃあ、嫌なことも、多いけど。
 ずっと彼の手を握っていた。力を緩めると、今度こそするりと下から掴まれる。彼の引っ張る動作に合わせて立ち上がる。
 同時に、風が、びゅおっ、と吹いた。足元をちろちろと転がっていく花びらを目で追って、それから、正面を少しだけ見上げると、加州くんの綺麗な顔が近くにあった。彼はずっとこちらを見ていたみたいで、今しがた目が合っても、赤い瞳が動揺することはなく、ふう、と肩の力を抜くだけだった。


「本丸に主がいなくてあいつら困ってたよ。俺らもついさっき帰ってきたばっかだし」
「そういえば、加州くんたちもおかえり」
「ん」


 口角が小さく上がる。加州くんがそういう風に笑うと、心の中は、きらっと宝石が光るような、柔らかい花がほころぶような、真っ白な雪を手のひらで掬い上げるような、今まさに見られたことが大変幸運に感じるような、不思議な気持ちになる。手は握られたままだ。どうせなら、このまま繋いで帰ろう。加州くんもわたしも、手を繋ぐのがすきなのだ。
 と考えていたのに加州くんが一向に動き出さない。早く戻らないといけないんじゃないのかな。手に落としていた視線を上げる。


「やっぱりもう少しだけここにいよっか」
「うん?」
「主は花が似合うからさ」


 そう言って、あっさり手を離したと思ったら、えーとなんて呟きながら三歩ほど歩いたあと、背中を向けてしゃがみこんだ。「来て来て」振り返って手招きする加州くんを追いかけ、隣で同じようにしゃがむ。さっきより随分と楽しげな横顔が見えたと思ったら、彼の手がわたしの髪を、ふわりと耳にかけた。


「はい。かわいい」


 加州くんがニッと笑ってやっと、彼のしたことに合点がいく。耳にかけたのは髪の毛だけじゃなかったみたい。耳の後ろに手をやると、柔らかい花びらの感触に触れる。本物の花飾り。わあ、初体験だ。  せっかく挿してくれたんだから下手に触って不恰好にしてしまうのはもったいない。手で様子を確かめるのは早々に控え、加州くんにお礼を述べる。


「ありがとう」
「どういたしまして。……それで戻ろっか。短刀たちに囲まれそうだけど」
「あ、ねえ、加州くんにもあげたい」
「俺?」
「うん。加州くん、お花似合うから」


 絶対わたしよりも似合う。初めてここを教えてくれた君、花畑を背景にとても綺麗だったこと、そう、まだ伝えてなかったね。近くの紫色の花を摘み、どこか表情を硬くしている加州くんの左耳にかける。ぎゅっと目をつむって、それから、おそるおそる開く。眉間に力が入ったままだ。あ、照れてる。照れてる加州くんも可愛い。小さく笑うと、加州くんはハッとして目を逸らしてしまったけれど、やっぱり嬉しそうに頬を染めて笑った。


「ありがと、主」
「加州くん可愛いよ」
「ほんと?……うーん、俺と主が短刀たちに囲まれるのも悪くないかもな」
「ぜひ囲んでもらおうよ」
「へへっ。じゃあ今度こそ戻ろっか」


 すくっと立ち上がった彼がもう一度手を引く。そのまま手をつないで、本丸の帰り道を歩いていく。途中、空を仰いだ加州くんが、「主がここを気に入ってくれただけで十分だったんだけどなあ」なんて呟くものだから、なんだか、素敵なものをあげられた気分になる。加州くんが喜んでくれるなら、いくらでも何でもあげてしまいたくなるよ。