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最近どうも視界が狭くて目が痒くなってきたと思ったら、伸びまくった前髪が原因だと気付いた。そういやここんとこ全然切っていなかった。ソファに座りながら前髪を梳いて、片手で押しつけてみる。もう目の下まで来ていた。そろそろ髪切らねえと視力悪くなるな。と、いつの間にかソファの傍らにがいて、おれが気付いたときにはそいつの手がおれの後ろ髪に、伸びて、やんわり髪を触られた。……な、こいつ…。


「サソリめちゃくちゃ髪伸びたねえ」
「…ああ」
「切ったげよっか」


の無頓着な問いかけに拒否の意と、髪から手を離してほしいのとで頭を軽く横に振った。があっさり手を離したあと、すぐにおれは後ろ髪を自分の手で梳いた。…こいつはほんとに、馬鹿だ。アホだ。無防備だ。んな手つきで触んな。おれは平静を保つように、無頓着な馬鹿を睨みつけた。


「いい。自分でできる」
「わかってるよ。わたしが髪切りたいだけ」
「おれに何のメリットもねえじゃねえか」
「大丈夫だよ、わたしうまいから」


確かには器用だ。きっと髪だって綺麗に切れるんだろう。…が、そこでそんな簡単にはいそうですかお願いします、なんて馬鹿みたいに承諾するわけにはいかない。あっさりこいつに髪を切ってもらってみろ、…精神的に死ぬ。おれが。


「そういう問題じゃねえ」
「じゃあどういう問題ですかサソリくん」
「おまえくん付けで呼ぶな…っ」


目に髪が入った。…やっぱ早いとこ切ろ。目を瞑って前髪を払う。あーまじ痛え。涙出てきやがった。こすりながら目を開ける、と、手を止められた。


「こすったら駄目だって」
「……」


屈んでおれの顔を覗きこむがいた。数秒間のフリーズのあと、おれは我に返った。でもそのときにはもう遅かった。はポケットに入ってたピンを手際よく使いおれの前髪を上で止めて、もうやる気満々の如く腕捲りをした。


「さて、新聞紙持ってくるかな」
「は、馬鹿、自分でやるっつってんだろ」
「いいじゃんよ」
「ふざけんな、そんな切りてえんだったら美容室でも開け。他の奴の髪切ってろ」
「やだ。わたしはサソリの髪を切りたいの」


だからおまえそういう恥ずかしいこと言うな!





どうもおれはに甘いようだ。結局おとなしく髪を切られることになって、おれは寄せた眉間の皺を緩ませることなく目を閉じた。耐えろ耐えろ耐えろ耐えろ耐えろおれ。大丈夫だ、今おれの髪を切ってるのはただのかぼちゃだ。かぼちゃだと思え。むしろかぼちゃであれ。髪から伝わる手の感触にぐらぐらしながらもおれは何とか耐えてみせた。ハサミが髪を切る乾いた音や、鳩時計が規則正しく刻む秒針が部屋中に響き渡る。なかなか精神統一できる静けさだ。よしこのまま…「サソリ」…無理だった。


「目開けてみて」


終わったのか、近くでかぼ…の声がした。このまま目を開けたらきっとが至近距離いて、間違いなくおれは抑えが効かなくなるだろうから、不自然じゃないよう に顎を引いてから、目を開けた。見えるのはおれの足と、奴の足。セーフ。「どう?」が聞いてくるのでおれは顔を下に向けたまま前髪を何回か梳いてみて、「平気だ」と言ってやった。実際、平気どころか丁度よかったのだ。ガタンと椅子を引いて十分に距離をおいてから立ち上がった。


「ほんと?よかった」
「どーもありがとうございました」
「こちらこそ」


「顔に髪ついてるから洗った方がいいかも」やっと顔を見れるようになって、おれはほっとした。下手に近いと、駄目だ。おかしくなる。そんなことをしてる場合じゃない、から、おれは我慢しねえと。こいつを完璧に守れるくらい強くなってから、それからだ。今じゃ話にならねえ。居間から出る間際、振り返る。後片付けをするはどう見ても普通の、ごく普通の女だ。でもおれからしたら、絶対に代わりのいない存在だろう。それくらいに大切だ。