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今月の掃除場所は教室だった。床を掃いて机を元の位置に戻し終わり、ようやく解散となると部活動に入っているクラスメイトは駆け足で教室を飛び出していった。急がないと遅れてしまうのだろう。帰宅部のわたしは特に急ぐ理由もなく、けれど約束はあるので机に置いておいたスクールバッグを肩にかけてゆっくり教室を出た。日が暮れる頃には丁度いい気温になるけれど、外は放課後のこの時間でもまだ暑い。といっても体育館の横はほとんど一日中日陰になっているので他の場所と比べるとかなり過ごしやすいから、特に困ってはいなかった。今日は昼休みに借りた本を読もうと思う。考えながら教室を出ようとした瞬間、廊下の左から人影が現れた。


「、!」


咄嗟に足を止めたため衝突は免れた。危ない、ぶつかるところだった。ちらりと相手を見上げるとその生徒は通り過ぎようとしたところで立ち止まりわたしを見下ろしていた。その視線に威圧感を感じる。どこかで見たことのある顔だ。「あ」何かを思いついたかのように口を開いたその人に身構える。


「おまえ確か赤司の…」


彼の口から発せられた名前に、わたしの脳みそはぐるんっとフル回転した。征十郎くん関係の人。ヒントで記憶を辿り、そして思い当たった。この人、バスケ部の人だ。名前は何だっけ、はい……あ、灰崎くんだ。途中入部したって征十郎くんが言ってた。能力は高いって、でもそう話してくれた征十郎くんの表情はあまり芳しくなかったのを覚えている。彼の無遠慮な視線がつま先からてっぺんまで這ったように感じる。身体が固まってしまう。


「幼なじみだっけ?飼い慣らされてんだってなァ」
「……かい、ならされてる…?」


パキン、と頭のどこかが折れた気がした。意味がわからなかったのだ。飼い慣らされてる。わたしが征十郎くんに。例えにしても彼の言ってることは間違いだ。何か誤解してる。そして、彼の言い方からして誰かから聞いたのだろうから、誤解してるのは灰崎くんだけじゃない。征十郎くんとわたしを、そういう風に思う人たちがいるのだ。地に足がついていない、立ちくらみが起こってるような気分だった。


「間違ってねえだろ?赤司の言うこと何でも聞くらしいじゃねえか」


にやりと笑う灰崎くんが怖い。確かに、わたしはずっと征十郎くんの言う通りにしてるけど、それがわたしにとって悪いことなんて一つもないのだ。征十郎くんはたくさん考えた上でわたしに頼みごとを任せてくれるし、何でもわたしのためを思って言ってくれる。言うことを聞くのは征十郎くんを信じてるからだ。そんな、飼い慣らされてるなんて形容、ちっとも合ってない。合ってないよ灰崎くん。眉をひそめて口を噤んでいると、黙るわたしに機嫌を損ねたのか灰崎くんは舌打ちをした。


「オイ何か言えよ」
「…灰崎くん部活行かないの?」


反論はしないで話を変えた。実際、もうとっくのとうにバスケ部は始まってる時間だ。わたしも家が遠いから一緒に帰ってくれる征十郎くんを待つために向かおうとしていたのだ。けれど部活が終わる時間までにいればいいわたしと違って灰崎くんは歴としたバスケ部員である。掃除当番だったのか知らないけど急ぐ様子がまるでない彼はどう見ても不自然だった。


「あ?あー行かね。めんどくせえからサボる」
「…駄目だよ。征十郎くんが困る」
「ハッ。やっぱ間違いねえな」


征十郎くんの幼なじみということで話し掛けられることは小学生の頃からたくさんあったけれど、こんな威圧的なファーストコンタクトは初めてだった。身長とは別に、あからさまに見下してくる視線。怖い。逃げてしまいたかったけれど、足もろくに動かなかった。彼が一歩近付く。防衛本能がとっさに働き腕を胸の前まで持っていくと、すかさず灰崎くんに手首を掴まれ引き寄せられた。ぎゅっと力が込められる。痛くて思わず声が漏れた。


「いっ…」
「人のモンは欲しくなっちまうんだよなァ、俺」
「、……」


「ま、あんまタイプじゃねーんだけど」すぐに離された手首を片方の掌で包む。言っている意味は、どういうことだろうか。こういうことにはいつまで経っても慣れなくて、大したこともされてないのに泣きそうになる。じんわりと視界が滲む中、灰崎くんの背中が遠ざかっていく。ゆっくり目を閉じて気持ちを落ち着かせるとそれは零れることはなかった。こんなことで泣いてなんかいられない。

ちゃんと訂正した方がよかったのだろうか。わたしが征十郎くんをどう思ってるのか、誤解を解いた方がよかったんだろうか。入学当初、流れる噂はいろいろあるだろうけれど心配しないでいいよ、と言っていた征十郎くんの声が思い出され、わたしの言葉で余計こじれてしまう懸念を抱え込んで黙ることにしたのだ。
征十郎くんが言っていたから大丈夫、それより早く体育館に行かないと。両頬を叩いて足を踏み出した。征十郎くんに会いにいく道は全部すきだ。


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