6


「あら、今日はちゃんいないの?」


体育館の出入り口から外を覗き込む玲央がそう零した。方向こそ無人の外を向いていたが僕への問い掛けであることは間違いない。首に掛けたスポーツタオルで汗を拭いながらそちらに足を向ける。


「いつも待たせてるわけじゃないからね」


ほとんど風通しの為だけに開けている出入り口はステージを挟んで両側に一つづつある。その片側が、が待ち時間にいる場所として玲央が聞いてくるくらいに定着したのは中学と同じだった。休憩時、外の空気に当たりたいときに重宝されるのは脇の出入り口二つと正面の大きなそれの三箇所である。向かって左側の出入り口には見知らぬ人間がいるということで避ける部員がほとんどの中、早々に彼女と打ち解けたスタメンの二年生三人だけは好んでそこで休憩を取っていた。人口密度という点から考えてもそこが穴場ということに思い至った部員たちも馴染みのない彼女がいることに目を瞑り利用するようになったのは最近のことだった。
それでもやはり真っ先にその出入り口へ向かうのは無冠の彼らで、今回も彼女の不在にいち早く気付いたのは玲央だった。


「そうなの?部室で何かしてるとか?」
「いいや。今日は特にやってほしいこともないからね。普通に帰らせたよ」
「あら、残念ねえ」
「何か用事でも?」
「そういう訳じゃないけれど。あの子とお話するの結構楽しみにしてるから、私」


そう少し寂しそうに笑う玲央の台詞は前にも聞いたことのあるものだった。あのときは涼太だったろうか。二年次同じクラスだった彼はあのメンバーの中では一番と親しかったのは間違いない。他のメンバーも今の玲央たちのように、彼女の存在に気付いたあとも気兼ねなくあの出入り口を使っていた。それを思い出し、同じだな、とふっと笑う。


「それなら毎日待つよう言っておこうか」
「えっ、いいのよ!そういう訳にもいかないでしょう?今のままでも充分楽しいから平気よ」
「そうかい?」


手を振る玲央に首を傾げると、「でも今度ちゃんにマニキュア塗ってあげてもいい?」と嬉しそうに笑うので快く頷いた。「いいよ。きっとも喜ぶ」ちらりとタイマーを確認すると休憩時間は残り二分を切っていた。と、視界に飛び込んでくる一つの影。


「なー赤司、雨降りそうじゃね?」


今までどこにいたのか、唐突に現れた小太郎には慣れたもので特に驚くこともなく、外に出た彼に倣い空を見上げた。隣で玲央も見上げている。確かに先ほどより雲行きは良くない。日没に関係なく空が暗くなっていた。なるほど、これは確かに一雨ありそうだ。


「嫌ねえ、部活終わるまで持てばいいんだけど」
「どうだかねー。丁度ぶつかりそ」
「征ちゃん傘持ってきてる?」
「いや、持ってきていないな」
「私もよ。部室に置き傘あったかしら」
「あったら俺入れて!」
「アンタはイヤっ!」


天気予報では一日晴れの予報だった上降水確率もかなり低かったが、所詮予報の中の確率である。いつもは折り畳み傘を部室のロッカーに常備してあるのだが、ついこないだそれを使ったきり持ってきていなかった。すっかり失念していたな。
しかし雨雲はゆっくりではあるものの薄いようだ。長く降るだろうが、降水量としては大したことないだろう。家も近いことだしこれなら傘を差さずとも帰れそうだ。そう結論付けて外に背を向けた。

「あれ、いないんだ」小太郎の呟きはブザーによって掻き消された。





「やっぱり降ってきちゃったわねえ」


何事もなく部活が終了し、体育館を出ると目視できる程度の小雨が降っていた。アスファルトには小さな水溜りがいくつかできている。思ったより早く降り始めたな、と眺めながら、後ろで小太郎たちがしているコンビニで傘を買うかどうかの話し合いを聞き流していた。


「あ、」


体育館から部室棟までの道は元々屋根がある。雨の冷気に当てられる前に早くシャワーを浴びようと向かっていると、バスケ部の部室の前に人影が見えた。それが誰だかわかった僕にワンテンポ遅れて気付いた小太郎が声を漏らすと、向こうもこちらに気付いたようで顔を上げた。


「征十郎くん」
「…、どうしてここに?」


家に帰ったんじゃなかったのか。その意味も込めて問えば、駆け寄ってきた彼女は困ったように笑った。


「家にいたら雨が降ってきたから。征十郎くん傘持ってないんじゃないかと思って」


そう言って、ここに来た理由を見せた彼女に瞬時に返答できなかった。後ろで小太郎たちが感嘆の声を零すのが聞こえる。

毎日のようにを待たせるのは僕の勝手な都合だった。ただ、目の届く範囲に置いておきたかったのだ。
中学の頃は家が遠いから送るという名目のもと彼女を待たせていた。自主練やミーティングなどで遅くなる日はあらかじめ先に帰るよう言っていたが、イレギュラーが飛び込み予定外に待たせてしまう日もあった。悪いと思ったが、それに対してが不満を漏らしたことは一度もなかった。
引退してその習慣は一度なくなったものの高校に入ると同時に復活した。もう二人の家は学校から遠くないというのに。
そんな矛盾とすら言えないような可笑しなことにもは頷いてしまう。僕のために何でもしたいと言う。その言葉は嘘などではなく、今回だって傘だけを持って学校に戻ってくるのだ。
自分のことを顧みず、僕のためだけを考え真っ直ぐでいる彼女を、僕はまだ手離せないでいる。どんなにが傷ついたとしても解放してあげられない。


「…ありがとう」
「ううん。ごめんね、わたし大きい傘これしかなくて、」


水色に白のドットが規則正しく並べられたそれは、シンプルだが確かに女子しか持たないであろうデザインだった。東京から遥々母方の祖父母の家に住むことになった彼女が傘をそう何本も所持しているはずがない。けれどもちろん、それをが気にする必要はないのだ。傘を持つの手を包むように自分のそれを重ねる。小さくて簡単に覆えてしまった。


「いいや、ありがとう。助かったよ」


それを聞くとはとても嬉しそうに笑った。つられて自分も笑みを零した。彼女の片腕には黄緑色の折り畳み傘が提がっている。きっと迷うことなく僕に大きい方の傘を貸そうとしたのだろう、そういった彼女の気遣いはいつも僕の心を満たした。どんなに身勝手でも、彼女が大切で仕方なかった。
優しいが、僕という罠にかかっている罪悪感。きっと君はもっと違う世界に生きるべきなんだろうけど。わかっていても、離れていかないよう手を繋ぐことしかできなかった。


「少し待っていてくれ。すぐに支度を整えて来るから」


僕はいつまで彼女を縛り付けていられるだろうか。


top