32





耳によく馴染んだ声に顔を上げると、部室棟の方から征十郎くんが駆けてきていた。目にした瞬間心臓がきゅうと悲鳴をあげる。その光景が、とても得がたいものに思えて仕方なかった。あまりにそうだから、駆け寄るべきなのに足が少しも動かなかった。


「征十郎くん…」


こぼれた声は掠れていた。
葉山さんと根武谷さんに聞いたのかもしれない。征十郎くんが部室から出てくるのを待つつもりだったけれど、急かしてしまったかもしれない。放課後、いつもの部活が終わる時間までは教室で待ち、体育館を覗いたら自主練をしていたので脇の入り口で待っていた。見つかったら駄目な気がしていつもの階段のところにはいられず、死角になる壁に寄りかかって待っていた。征十郎くんと実渕さんが切り上げる声を聞き、十分間を空けてから移動した。ついさっき葉山さんたちに会って、彼らは二人がまだ帰ってないことに驚いていたけれど、わたしは努めていつも通りにお疲れ様ですと労いの言葉をかけた。それ以外に何が言えるだろうか。いつも通り、「気ィ付けて帰れよ」と返す根武谷さんや葉山さんの様子から、征十郎くんが彼らに何も言ってないことは明らかだった。征十郎くんが言わなくてわたしが言うなんてあり得ない。言って、どうするって話だ。わたしが言わなきゃいけないことは全部、征十郎くんに言わないと意味がないことなのに。

目の前一メートルくらいの距離で立ち止まった征十郎くんに息を飲む。ここの出入り口は屋根があるので、月明かりも遮られてかなり暗い。顔ははっきりとは見えない。征十郎くんの吐く息が白かった。走ってきてくれた。胸が苦しい。


「…俺のことを待っていたのか?」
「うん、あの、ごめんね、勝手に待って…」
「いや…」
「征十郎くん、あのね、言わなきゃと思って、どうしても……」
「……ああ」


一度俯いて目を閉じる。征十郎くんの気配をすぐ近くに感じる。言わないと、じゃないとわたし、何もかもなくしてしまう。
顔を上げる。征十郎くんの瞳が、痛みを堪えてるみたいに揺れていた。一瞬息が止まる。おそるおそる、呼吸する。


「征十郎くんのそばにいたい…離れたくないです…」


彼の目が見開かれる。それから、眉間に皺を寄せて口をつぐむ。よくない反応に咄嗟に謝罪が口をついた。「わ、わがまま言ってごめん…」逃げるようにまた俯く。知ってる。わかってる。征十郎くんが言いたいことは全部わかってる。でも、でもそれだけは……。

あなたはわたしの心配をしてくれてるの。案じて、そばにいない方がいいと言った。わかってる。
昨日、家に帰ったら叔母さんに心配されてしまった。つい一昨日怪我を作ったばっかりだったから余計に、学校で何かあったの?と聞かれてしまった。わたしは泣き止んだばかりの赤い顔のまま首を横に振ったけれど、心配げな顔は晴れず、ついには「つらかったら東京戻ってもいいんだよ」と言われてしまった。そんなこと絶対しない、って口をついた瞬間、こういうことなんだと気が付いた。

「俺のそばにいない方がいいんだ」征十郎くんの、手を離すような言葉は、呆れて嫌いになった「もういらない」じゃなかった。わたしを大事にしてくれる征十郎くんが、征十郎くんを理由に何かされるのを憂慮して離れた方がいいと言ったのだ。わたしは勝手に世界が終わったような絶望を感じてしまったけれど、ただの思い込みだったのだ。


「わたし征十郎くんのためにできること、何でもするから、でも離れるのだけは……」


見上げた先の征十郎くんは、まるで泣き出しそうな眼差しでわたしを見下ろしていた。震える息を吐き出す。彼の表情の意味を正しく読み取ることはとても難しく、わたしはただ、その目がゆっくりと伏せられるのを黙って見ているだけだった。


「初めてだな」
「え…?」
が俺の言ったことに異を唱えるのは」
「そ、そうかな」
「ああ。……だが、悪くないな」


そう言った彼は静かに笑みを浮かべていた。目を細め口角を上げ、まごうことなき笑顔を、わたしに向けていたのだ。その意味を理解したわたしは胸がいっぱいになり、堪えきれず破顔した。征十郎くんに腕を引かれ、そのまま彼の腕の中に閉じ込められる。温かい感触に包まれ目を閉じる。じわりと眼球の奥が熱くなった。

中学と高校での生活を思い出す。わたしのために距離を置いてる征十郎くん。もしもわたしが考えなしに歩み寄ってしまったら、彼の頑張りを無駄にしてしまう。小学校の頃みたいにあなたの名前ばかり呼んではいけない。わたしとあなたは希薄な間柄。名ばかりの幼なじみ。一緒に帰るのは放課後危ない目に遭ったことがあるからなんて適当な理由。そんな名目がないと一緒にいられない。じゃないとわたしによくないことが起こって、征十郎くんが悲しむ。あなたを悲しませたくない。笑っていてほしい。

わたしに笑ってほしい。


に、我慢してほしいことがあるんだ」
「うん」
「好奇の目に晒されること、理不尽なやっかみを買うこと、不要な期待をされること」
「うん、」
「何も応えなくていい。つらくなったら全部俺に言えばいい。俺が何とかするから」
「うん、征十郎くん、ありがとう…。でもわたしも、頑張って強くなるから、大丈夫だよ」


「わたしが征十郎くんと一緒にいたいから、我慢もするし見返してやりたいと思うよ」そう、わたしずっとやらなきゃいけないことをサボってきた。征十郎くんが守ってくれるからって甘えて頑張ることをしてこなかった。こんな自分が取るべき最善手は征十郎くんから離れることだと思っていた。でも、守られなくても大丈夫なくらい、強い人になればいい話だった。そんな当たり前のことを決心するのに、一体、何年かかったんだろう。征十郎くんに謝らせてようやく気付くなんて本当にバカだ。


「…なんだか、二人して同じことを考えていたみたいだな」
「え?」
「俺はずっと、そばにいるようを騙しているつもりだったが…」
「なんで、わたしがそばにいたくてわがまま言ってたんだよ、それに征十郎くんが応えてくれてたんだよ」
「ほら」


ふふ、と愉快そうに笑い声がこぼれる。征十郎くんはゆっくり腕を解いて、わたしを見下ろした。


「離れるのが正解だとばかり思っていたが、俺たちが嫌だって思うなら、きっと違うんだろうね」


それは穏やかな、幸せそうな声だった。鼻の奥がつんとして視界がぼやける。震える心臓に声が出せず黙って頷くと、征十郎くんは目を伏せ、笑みを深めた。


「また間違えるところだった。諦めないでくれてありがとう、


右手でわたしの髪を梳き、頬に添えられる。優しい征十郎くんの笑顔だった。わたしの大好きな笑顔。堪えていた両目からポロっと涙がこぼれた。「わ、わたしこそ…」流れる涙を征十郎くんの親指が優しく拭う。ずずっと鼻をすする。うん、と彼はゆっくり頷いた。


「ずっと俺と一緒にいてほしい。、君が一番大切だよ」


その言葉で、何もかも優しい声で、堰を切ったように涙がこぼれる。昨日とは全然違う意味でボロボロ流れた。嗚咽が漏れる。堪え切れず、ついにはわんわん泣き声をあげながら泣いた。征十郎くんはそんなわたしを抱き寄せ、落ち着かせるように背中をゆっくり撫でてくれた。

ずっと欲しかった。征十郎くんの幸せを願いながら、ずっと抱え続けた自分の重い欲が還元されるのを望んでた。征十郎くんのそばにずっといたい。征十郎くんに、いていいんだよって言ってほしかった。


「あり、ありがとう〜…!」


なんとか伝えた感謝の言葉に、征十郎くんはわたしの耳元で「俺こそ」と囁くように言ったあと、両腕でぎゅうと抱きしめてくれた。わたしはもう、この場所、この空気、この瞬間があまりにも幸せで、これ以上いいことなんてないんじゃないかとすら思えた。それでもよかった。わたし征十郎くんのおかげで生きていられる。


top