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自主練のメニューを終える頃には二時間が経っていた。そろそろ上がろうと近くにいた葉山と根武谷に声をかけるとあと少し残るとの返答があったため戸締りを任せ、タイミングの合った実渕と部室へ戻ることにした。「お疲れ」「おつかれー」ひらひら手を振る葉山に軽く手を挙げ体育館をあとにする。
部室のドアを開けると俺たちの前に残っていた部員があいさつと共に入れ違うように帰って行った。自分のロッカーを開け、汗の処理をしながら週末のメニューを考える。新人戦を控えた今、新体制も着々と整えられている。先ほどの部員も監督と話した際名前が挙がった選手の一人だった。主力はウィンターカップまでのそれとほぼ変わらないため公式戦に出られる枠はそう多くはないのだが、俺も足元をすくわれることがないよう気を引き締めなければ。


「そういえば征ちゃん、どこか具合でも悪いの?」


投げかけられた問いに振り返ると、すぐ後ろに置いてあるベンチに座る実渕と目が合った。スポーツタオルを首にかけ汗を拭う彼は素直に疑問に思っていたらしく他意は見受けられなかった。しかし想定していなかった話題に、反射的に「いや」と口がついた。


「特に不調ではないが。どうしてそう思った?」
「どうしてって言われると難しいんだけど…なんだか今日の征ちゃん、いつもと違う気がして」


顎に手を当て考える素振りを見せる実渕に眉をひそめる。「どこか至らない部分があったか?」思い返しても部活中の自分にミスはなかったように思う。少なくとも自覚はなく、実渕以外からの指摘も受けなかった。
考えられるとすれば……だが、部活に私情を持ち込んだつもりはない。ウィンターカップの決勝戦で醜態を晒した俺が言えることではないが、それを挽回するためにも練習で手を抜くことは考えられなかった。


「責めてるわけじゃないのよ。ただ珍しく精彩を欠いてたように見えたの。勘違いだったらごめんなさい」
「いや。気付いたことは指摘してくれて構わない。俺も気を付けよう」
「まだしばらく寒いものねえ」


「それに汗が引いたと思ったらすぐ乾燥するの困っちゃうわ」立ち上がりロッカーを開ける実渕から顔を背け自分のそれへと向き直る。実渕はどうやら俺の不調を体調が原因と考えたようだった。納得したのならそれでいい。わざわざ別の可能性を提示するのはあまりに情けないため沈黙を選ばせてもらう。長袖の練習着を脱ぎ、黒のTシャツと濃灰のワイシャツに袖を通す。実渕の言った通りこの季節はどこにいても寒い。入り浸りを抑止するため部室の暖房を入れるのは必要最低限と定めているが、二月に向けて冷え込む気候では稼働も秒読みといったところか。スラックスに履き替え、ネクタイを締めてからベージュのセーターを羽織る。あとはブレザーとコートを着れば帰りの支度は済む。明日も朝練は早い。さっさと帰るに越したことはない。ハンガーにかけられたグレーのブレザーへ手を伸ばす。


「そうだ。今日もちゃん待ってるの?」


ピクッと動きが止まる。すぐに平静を取り戻し、目的のものを手に取る。


「今日はいないよ」
「あらそうなの?じゃあ、明日のちゃんの予定聞いてみてもらえないかしら。新しいマニキュア買ったからよければ部活終わりに塗ってあげたくて」
「どうだろう。直接聞いてみてくれ」
「…え?」


呆気にとられた声。ロッカーの扉越しに実渕を見遣ると、想像通り目を見開き中途半端に笑みを作った表情で固まっていた。努めて感情を表に出さないよう見つめ返す。さすがにあからさまだったか。しかし今の俺が言えるのはこれがすべてだろう。本来ならば実渕にものことを諦めてもらうべきところを、これでも譲歩しているのだ。


「えっ…と、どういうことかしら」
「そのままの意味だが。彼女の都合なら本人に聞くのが早いだろう」
「え、ちょっと、どうしたの?何かあったの?」
「人に言うようなことは、何も」
「何もって…ちゃんのことそんな風に言うなんて征ちゃんらしくないわよ」


無意識に顎を引く。自然と目つきは鋭くなり、睨んでいるように見えるかもしれない。しかしそんなことに気を配る余裕もなく、俺は実渕の見せる動揺や台詞をいかにしてかわすべきか考えていた。適当な嘘でも吐いて流すべきだったか。実渕のことだ、俺の「不調」の原因がこれだと察してしまったことだろう。


「どうしたの?喧嘩?全然想像つかないけど…」
「実渕が気にすることじゃない。俺との問題だ」
「ちょっと、薄情なこと言わないでよ」


案外引き下がらない彼へわずかに顔が歪む。薄情な部分があることは自覚しているが、ここで言われる謂れはない。実渕には関係ないことだ、間違ったことは言っていない。


「私たちを頼ってって言ったじゃない」
「……」
「もちろん頼ってほしいのはこの件に限ったことじゃないけど。でも応援するにしても口を出し過ぎるのはよくないしって、いろいろ気にしてるのよこっちも」


肩をすくめる実渕に目を細める。彼の言うことに嘘はなかった。「………」はあ、と息をつく。自然と肩の力が抜けたように感じた。気を張っていたつもりはなかったにも関わらず、だ。


「……そうだったな」


目を伏せる。彼らのことはとうに信頼していた。実渕は確かによく俺とのことを気にかけてくれていた。ただ、俺の中に、誰かに話すという選択肢がなかったのだ。それにここ数日であったことを思い返すと怨嗟や怒りや悲哀に苛まれ、話したいとは到底思えなかった。「…詳細は省くが……」ロッカーの戸を押し閉める。


に、俺のそばにいない方がいいと伝えたんだ」
「……え…?」


さっきまでの比じゃないほど呆然とした顔を見せる。ショックすら受けている様子の実渕に、ほんの少しの罪悪感を覚えた。俺たちのことを心配していたのは本当だった。見守ってくれていたのだろう。彼の思い描いていた形に帰結しなかったことは単純に申し訳ないと思う。もちろん俺はに関してこれまで、自分とのためにしか動いていなかったが。
そう、だから昨日伝えたことも、彼女のためを思いようやく口にしたことだった。


「それってつまり…ちゃんのこと、もう諦めるってこと?」


動揺をはらんだ声で問われる。「……」諦める。を手離す。彼女は俺のそばにいるべきじゃない。わかっていたことからずっと目を逸らしてきた。これは俺への罰だ。
を見ていると自然と優しい気持ちになれた。心の平穏を彼女に求めていた。だから、彼女の優しさに甘えて高校にまで付いて来させた。そうして彼女に求める救いが極限まで大きくなってから手離さなくてはならない、身を焼くような痛みが罰ならば受け入れる他ない。俺の勝手で背負う羽目になった周囲からの要らぬ重圧で、このままではいつかが潰されてしまう。そばで失うくらいなら遠くで笑っていてほしかった。


「そうだ」


たとえそれが俺から見えなくても。


「…それ、ちゃんのためになると思って言ったの?」


実渕の言い方はまさに責めているようだった。彼はこれまでに何度か、自分の口から出た言葉に対して弁明することがあったが、今それをすることは決してなかった。
目を伏せ考える。のためを思って言ったのは本当だ。これ以上が自分のせいで傷ついてほしくなかった。これまで良くも悪くも現状維持を貫いてきた「俺」と違って、今の俺には選択肢がもはや一つしか見えなかった。それが、二人の破滅だった。


にこれ以上不幸な思いをしてほしくないんだ」
「不幸って……泣いたんじゃないの、あの子。泣くとこ見たことないけど、征ちゃんにそんなこと言われたら悲しいなんてもんじゃないわ、絶対」


ああ、と目を逸らす。昨日の帰り道、は大泣きした。あんなに泣いたのは久しぶりに見た。しばらく落ち着かなくて、俺はを目一杯傷つけた自覚はあったけれど、最後だからとずっと抱き締めていた。家に帰るのを見届けてから今日まで顔を一切見ていない。今日登校しているのかさえ知らなかった。

「俺のそばにいない方がいい」俺がこれを言ったらおしまいだ。でも、だからこそ俺から手を離さなければいけなかった。


ちゃんじゃなくて征ちゃんに言うべきだったわ…」
「…何の話だ?」
「いえ。…ちゃんを思いやってのことなのはわかったわ。でもこればっかりは……だって征ちゃんあなた、ちゃんのこと大切って言ってたじゃない。だから心配してなかったのに、もう…」
「大切だからの平穏を願っているんだ。いや、ずっと願ってはいた。そのくせ何も変えようとしなかっただけだ」


との関係を隠し、けれど目の届く範囲に置いておく。何かあれば守れる距離にいる。それさえできればよかった。だからの不幸を無視して押し通すわがままであることに目を瞑り、彼女を心置きなく笑い穏やかに暮らせる環境へ促すことができなかった。彼女の存在が俺の安心だったから。


「だが、変わらずずっとなんて初めから無理な話だったんだ。遅かれ早かれこうなることはわかっていた」
ちゃんはそれでいいって言ったの?」
「言ってはいないが、頷くさ。は俺の言ったことは受け入れてくれる」
「だからこそ、そんなこと…」

「お、ほんとにまだいた。おつかれー」


唐突に開いたドアへ顔を向ける。葉山と根武谷が戻ってきたらしい。新しい人物の登場に、部室に張り詰めていた空気が一気に弛緩したような錯覚を覚えた。それは実渕も同じだったようで、明らかに全身の力が抜けていた。目を瞬かせる葉山を渋い表情で見ていた実渕が俺の視線に気が付く。それから何か言い澱むように視線をさ迷わせたあと、思い切ったように俺の肩を押してみせた。


「とにかく、もう一度よく話し合って!このままなんて絶対イヤ!」
「え?話し合うって誰と?」
ちゃんよ、ちゃん!この時間なら家に帰ってるでしょ、早く行ってあげて!」
なら外にいたじゃねえか」


「え?」俺と実渕の声が重なる。自分のロッカーの前に荷物を置いた根武谷の台詞だった。凝視する俺たちに振り返った根武谷はそれから葉山に首を向け、「なあ?」「うん」と同意を得ていた。……がいる?予想外の事態に脳が一時停止したがすぐに動き出す。なぜが。連絡は何も入れていない。委員会もないはず。根武谷の言い方はたまたますれ違ったなどでもなかった。瞬時に、校舎の出入り口、いつもの定位置で待つ彼女が想像できた。いや、だがそもそも俺は昨日彼女をあんなに泣かせて……「征ちゃん…っ」実渕に肩を叩かれ我に返る。


「早く行ってあげないと!外寒いんだから!」
「…あ、ああ、」
「ほら、荷物はあとで取りに来ればいいからブレザーとコートだけでも羽織って!」
「落ち着け実渕。自分で着れる」


慌てた様子の実渕が俺からブレザーを奪い着せようとしてくるのを制する。彼の言った通り防寒着だけを身につけ、ローファーに履き替える。荷物は全く片付いていなかったが、これも彼の言葉に甘えることにする。とにかくのことを確認しなければ。「すまない。すぐ戻る」言いながら実渕に背を向ける。


「征ちゃん、」


その声から一拍おき、とんっと背中を押された。軽い衝撃に体勢を崩すことなく振り返る。


「あなたのこと、応援してるわ」


実渕はまっすぐ俺を見ていた。俺を案じているようで、しかし信頼しているのだとわかった。「ありがとう」するりと出た言葉だった。それからふっと自嘲の笑みをこぼす。チームメイトとはいえ、ここまで見透かされるなんて俺もまだまだだな。思いながら、部室を出た。


「…少しは力になれたのかしら?」
「何の話?」
「そうね…征ちゃんが思ったより手のかかる可愛い主将だったってハナシ」


自然と足は急いでいた。部室棟の通路を駆け、外に出る。刺すような空気は真冬のそれだった。汗は引いていたが全身が一気に冷える感覚を覚える。だが立ち止まることはせず、目的の場所まで走る。校舎への出入り口。昇降口は別にあるが、体育館と部室棟との間にあるそこを毎回の待ち合わせ場所にしていた。いないかもしれない。俺を待っているんじゃないのかもしれない。近付いたら困らせるかもしれない。

でもは、言わなくても俺の近くに来てくれる。


残念ながら、俺と君が一緒にいると周りの人間がよく思わないんだ。きっと俺の立場がそうさせている。どう考えたって君より俺の方に原因がある。俺が心のまま君を欲したら、俺じゃないところで君が悲しむ。それが耐えられない。君を泣かせたくない。笑ってほしい。


俺に笑ってほしい。


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