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教室の窓から見える空がすっかり真っ暗になって二時間ほど経ってから。そろそろ呼ばれるかなと机に置いていた携帯に目を落とし、読みかけの本に栞を挟んだ。自主練をするかもしれないから、そしたらまだまだだけど。でもわたしはある種の予感があったので、本を閉じスクールバッグにしまって席を立つことにした。当然のように最後の一人なので教室の電気を消さないと。バッグを肩に掛け、前の入り口にある照明のスイッチへ足を向ける。


。おまたせ」


振り返る。教室の後ろの入り口から、征十郎くんが顔を覗かせていた。「征十郎くん」ちょっと驚いて足が止まる。征十郎くんは制服に着替え終わっていて支度は万全だ。駆け寄る前に電気を消してしまった方がいいかな。思いながら彼を見つめる。

征十郎くん、何か言いたそう。

はっきりとはわからないけど何となく思った。一緒に帰る際、征十郎くんがわたしを迎えに来ることはほとんどない。周りを気にしての対処の一つだから、これについてどうこう思ったことはない。
けれど今、あまりいい予感がしなかった。


「お疲れさま。ちょっと待ってて、」


ともすれば飲み込まれてしまいそうなネガティブな空気を振り払うように、わたしは踵を返しスイッチを押した。ふっと消える照明。廊下の明かりも消えていたので、窓の外から届く街路灯だけが頼りだった。
暗いのは怖かったけれど、征十郎くんがいてくれるから怖くない。前の入り口から廊下に出、反対側で待つ彼に小走りで駆け寄る。表情はよく見えない。


「帰ろう」


でもそう言って柔らかく導いてくれるのなら、わたし何もためらわないよ。

校舎を出、二人だけの帰路につく。途中で体育館の横を通り過ぎたけれどすでに真っ暗で、今日は誰も自主練をしていないことがうかがえた。先生の指示で残れない日だったのかもしれない。学校が始まってから毎日のように自主練に励んでいるのが征十郎くんだけじゃないことは知っていた。


「高倉のことだが」


どきっと緊張する。昼休みのことだろうか。すぐに思い当たった。今日の昼休み、征十郎くんが突然わたしのクラスに来て高倉くんを呼んだ。二人が教室を出ていくのをわたしは自分の席から見ていただけで、声をかけることはしなかった。征十郎くんもわたしを一瞥すらしなかったから、少しもお呼びじゃなかったと思う。あれから何があったかはわからない。ただ五限ぎりぎりに戻ってきた高倉くんの機嫌が悪かったのは知っている。
隣を歩く征十郎くんの顔をうかがうように盗み見る。普段通り優しい声音だけれど、どこか遣る瀬なく翳る雰囲気に動揺してしまう。


が階段から落ちたのは、あいつのせいだったよ」


「……」予想していた真相だった。なんとなくあの人と話していて、犯人がいるとしたら彼だと思っていた。それに昨日の時点で征十郎くんは確信していたようだった。


「そ、そうなんだ…でも、全然、もう痛くないし…気にしてないよ…」


頭を掻きながら誰のためかもわからないフォローをする。もちろん高倉くんのためではない。征十郎くんのために、なってるだろうか。ふっと息が漏れ、彼が笑ったのがわかった。


「昨日から当時のことを詳しく聞いておいてよかったよ。ありがとう」
「自信ないとこもあったけど、大丈夫だった?」
「ああ。少なくともあいつが異議を唱える部分はなかった。俺が見た範囲だけじゃ追い詰められなかったから、助かったよ」
「わたしこそ、ありがとう、いろいろしてくれて」


が教えてくれたおかげだよ」わたしに向きながら言ってくれる。だからわたしは征十郎くんの役に立てたんだと思える。ずっと願っていたことだった。
昨日、高倉くんに誘われるがまま一緒に帰った。お互い積極的に話をしようとしなかったから、実のある会話はなかったと思う。家に着く前の信号で俺こっちだからと別れた。なので、その足で学校に引き返した。征十郎くんに待っててと言われて先に帰るわけがない。バスケ部が終わるまで時間はたくさんあったから、もし仮に高倉くんが家まで送ってくれたとしたって学校に戻るつもりだった。
彼みたいな人はもう知っていた。中学のとき話しかけてきた灰崎くんみたいだった。きっとわたしと征十郎くんにとってよくないことを考えている人だ。だから、既視感の正体に気付いたときから正解は決まっていた。何食わぬ顔で彼へさよならの手を振る様はさながら灰崎くんへのリベンジマッチのようだっただろう。学校へ戻り征十郎くんと合流したあとでそのことを話すと、征十郎くんは少し考えたのち、階段から落ちた件について詳しく説明を求めたのだった。

征十郎くんに隠し事はしない。何かあったらちゃんと言う。征十郎くんはわたしを守ってくれるから。元はわたしが招いた厄介ごとを、征十郎くんが解決してくれた。解決に当たって当事者であるわたしの情報が役に立っただけで、征十郎くんに余計な手間をかけさせたにすぎないと、わかっているけれど。


「それで、奴がに手を出した理由は、俺への逆恨みだったよ」
「……そっかあ…」


いい、そんなことは大した問題じゃないよ。結局のところわたしに隙があるのがいけない。わたしなら当てつけで攻撃できると思われてしまうのがいけないのだ。
見上げると征十郎くんは前を向いていたけれど俯き気味で、表情ははっきりと翳っていた。思わず目を逸らし、わたしも俯いてしまう。……征十郎くん、謝りたそうだ。でも覚えてるから、そうしないんだ。

わたしも忘れてない。小学生のとき初めて大きなやっかみを買ったときのこと。征十郎くんが助けに来てくれて、彼の家で髪の毛を乾かして手当てをしてくれた。温かいココアまで作ってくれた。わたしはもう十分に救われた気持ちになっていた。けれど征十郎くんは、とても苦しそうに謝った。今でも思い出せる。抱き寄せられた耳元で零れ落ちた謝罪の言葉は、今でもわたしの心に重くのしかかるのだ。


「謝らないで征十郎くん、何も悪くないよ。だからずっとそばにいさせて、謝らなんてなくていいから、ずっとそばにいさせて、お願い」


小学生のわたしが懇願するように縋る。征十郎くんのシャツを掴んだまま、ポタポタと涙を落とす。征十郎くんの顔は見えない。


「…うん、わかった」


わたしはあのとき、彼を助けたつもりだった。わたしへの罪の意識から逃がしてあげた気になっていたのだ。でも実際は、余計に彼を苦しめていた。謝罪を許さず、征十郎くんは罪悪感を払拭できず溜め続けることを余儀なくされた。今だってそうだ。

これからだって征十郎くんがわたしに謝らなきゃいけないことなんて、きっと一つだってないのに、謝りたいと思わせてしまうことがつらかった。どん詰まりの状態に身動きが取れない。わたしが望む道は征十郎くんが永遠に苦しむ道だ。そんなの少しも望んでない、でもあなたと一緒にいたい。

だとしたらせめて、楽にしてあげなきゃ。


「征十郎くん」
「…ん?」


立ち止まり、手を伸ばし彼の袖口を引く。同じように足を止め振り返ってくれる。その表情は優しい。優しいけれど、穏やかではなかった。今の彼にはどれほどの後悔と罪悪感が募っているんだろう。それでも嫌な顔一つしないで変わらず優しくしてくれるこの人こそ、世界で一番幸せになってほしいのに。


「征十郎くんは全然悪くないけど、征十郎くんが楽になるなら、謝って、いいよ…」


偉そうな台詞だ。自分の口から出たことに血の気すら引く。辺りは住宅が続きわたしの家まであと一分ほどだった。人通りはない。等間隔に並ぶ街灯が征十郎くんを背後から照らしていた。静まり返った空気が冷たく刺さる。心臓は気味の悪い脈を打つ。征十郎くんの赤い瞳が揺れていた。
一歩近づく、背中に腕を回し抱き寄せられる。彼の肩口とわたしの額が当たる。征十郎くんは何も言わない。でも、ごめんって言ってるのが伝わってくる。だから、現実から目を背けるようにぎゅうと瞑った。

征十郎くん、昨日女の子たちにわたしの面倒見る征十郎くんが可哀想って言われちゃったよ。そう、間違ってないよね、ずっと知ってたことだけど、誰かに言われるとこんなにきついものなんだね。きっと征十郎くんはこの痛みを何度も受けてきたんだろう。本当に悪いのは誰か、言うまでもないのにね。


「…、俺のためにここまで一緒にいてくれて、ありがとう」


征十郎くんの抱き締める力が強くなる。


「でも本当は、俺のそばにいない方がいいんだ。……今まで言ってあげられなくて、すまなかった」


彼の言葉をはっきりと理解した瞬間、波のように襲いかかってくる感情にいとも容易く飲まれた。抗うこともできず大粒の涙を流す。征十郎くんはそれ以上何も言わず、ただずっと抱きしめてくれた。


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