28


翌朝になると足の痛みは随分ましになっていた。腫れたりしなくてよかった、学校に行けなくなったらどうしようかと思った。昨夜の心配も杞憂に終わり、ベッドに腰掛けて両足の患部を一通り触ってみたあといつも通り学校の支度を始めた。

二限の数学と三限の古典に挟まれた十分休憩で、便覧をロッカーに入れたままなのを思い出し廊下へ出た。するとちょうど征十郎くんが教室の前を通り過ぎるところだったらしく視界の隅に彼を捉えた。瞬間、身体ごと振り返る。


「征十郎くん」
「ああ。怪我は大丈夫だったか?」


「うん!」満面の笑みで大きく頷く。わたしの目の前で立ち止まった彼の腕には化学の教科書が抱えられていたので、移動教室なんだろう。ラッキーだった。昨日の今日で征十郎くんなら絶対気にかけてくれると思ったのだ。右足の青痣はともかく、左膝の甲はちゃんと見れば傷跡は残ってる。少し目線を下げた彼に合わせて足を伸ばしたまま軽く前に上げてみると、「よかった」と彼は言った。


「気を付けるんだよ」


それだけ言って、わたしの横を通り抜けていった。すれ違いざまの彼の表情に名残なんてものはなく、まるで何事もなかったかのように無表情だった。「さんどうしたの?」「階段から落ちたらしい」一緒に歩いていた男の子との会話を遠くの耳で聞く。目を逸らし、自分の髪の毛を梳く。……調子に乗ってしまった。自分の行動や自意識が恥ずかしくて、振り払うようにトイレへ逃げ込んだ。トイレのあとで便覧を取ろう。ちゃんと頭の中にインプットして、一番手前の個室に入った。

四方を壁で囲まれたここは思考するのにうってつけだった。考えることは当然、征十郎くんのことだ。
征十郎くんはいつもわたしに優しくしてくれる。それは間違いない。じゃなければこの十五年見てきた彼は何だと言うのだろう。彼の優しさを疑ったことは一度もなかった。だからさっきのも、面倒くさがられたんじゃないのもわかってる。そのくせ心臓が宙に浮いたみたいにどきどきする。馬鹿なことだ。征十郎くんにそんな態度を取らせてるのは紛れもないわたしだというのに。
…反省した。そろそろ出よう。水洗レバーを回し支度を整える。次会ったとき謝るのは、何だか征十郎くんの気遣いを仇で返すみたいだから言わない。こうしてわたしは征十郎くんへ言うべき言葉を飲み込んで逃げるのだ。だって言ったら終わりそうで。
スカートがめくれてないか後ろ手で確認し、個室の鍵に手をかける。


「てかこないだの赤司くんのやつ聞いた?」


ドキッと一層大きく心臓が脈打つ。個室の外から聞こえる女の子の声だ。ステンレス製の鍵から反射的に手を離す。出るべきじゃないと直感したのだ。外では女の子たちが何人か固まっているようで、一人の話題の投げかけに対して複数の相槌が聞こえてきた。


「どれ?」
「サッカーで超かっこよかったってやつ」
「超かっこいいのなんて当たり前じゃん。体育同じクラスの女子ほんとうらやましいー」
「ていうか男子のがうらやましくない?男女別の種目のときあんじゃん。どうせサッカーも女子は体育館から見てたんでしょ」
「それができるだけいいじゃん。わたしらどうあがいても見れないんだよ」
「そうだね」
「赤司様の勇姿近くで見られるのほんとうらやましい〜」


矢継ぎ早のように続く彼女たちの羨望にだんだんと落ち着かなくなってくる。水道の流水音も聞こえるから、手を洗いながらの女子トークだ。わたしも友達と、ときどきやる。昨日のドラマ、コンビニのお菓子、憧れの先輩、かっこいい男の子、すきな人。いつも聞く側のわたしはうんうんって相槌を打つばかりだ。すきな男の子の話なんて、もってのほかだった。


「うらやましいといえば幼なじみのさんもうらやましいよねー」


「……!」口から心臓が出るんじゃないかと思った。予感してたくせにいざ名前が出ると動揺してしまう。征十郎くんの話題で自分の名前を聞くのは小学校で何度もあった。でも中学じゃまるでなかったから、この感覚はだいぶ久しぶりだった。人づてに、噂を聞いたことはあったけれど。


「え?そう?」
「だって小さい頃から赤司様見てこれたんでしょー?」
「そっか。高校も一緒だしね」
「偶然なわけないよね東京だし。赤司様を追いかけてきたんでしょ」
「やばい、ガチじゃん」
「ガチだね」
「のわりにあんま仲良くなくない?」
「一緒に帰ってるっぽいこと聞いたことあるけど」
「知ってる。昔さんが不審者に追いかけられたからだっけ?義務義務」
「他意はない」
「赤司様さんのことどう思ってんだろ」
「さあ〜少なくとも幼なじみ以上ではないね」
「それでもうらやましい〜!」
「ていうか一緒に帰るの義務って面倒臭くない?私なら一人で帰れって思うけど」
「確かに。赤司くん可哀想」
「かわいそー」


トイレを出ていく女の子のやりとりが聞こえなくなるギリギリまで耳をそばだていた。ドアにぴたりとつけていた右耳を怖々と離す。手が震えていた。ぎゅうと握り込むと、指先がひんやりと冷たかった。


「……」


次第に冷たくなっていく手で口を覆い隠し、強く目を瞑る。吐き出した息も震えていた。さっきの比じゃないくらいの浮遊感に気持ち悪くなる。一歩も動けない。何もできない。自分が今何色の感情をしているのかもわからなかった。





さん」


呼ばれた自分の名前に顔を上げる。先ほど帰りのホームルームが終わったので、クラスメイトが教室を出ていくのをぼんやり眺めていた。わたしは征十郎くんの部活が終わるまでここで待つから、帰りの支度はまだしなくてよかった。あいさつを交わす友達とは席が遠いので、席替えをしてからは特に誰とも会話することはなかった。だから突然呼ばれては驚くのも無理ないと思う。


さん大丈夫?昨日階段から落ちてたやつ」


加えてそれが高倉くんだったから尚更。


「……あ、うん…」
「あのあと気になってたんだよ。もしまだ痛いなら今日送ろうか?俺部活休みだからさ」


じっと見つめられ思わず逸らす。机の上には中途半端に積まれた教科書と口の開いたスクールバッグが置いてある。どうしよう、と思考を巡らせた瞬間、保健室での征十郎くんの伏せた目がフラッシュバックした。途端、スッと背筋が冷える。


「いや、大丈夫」
「なんで?バスケ部今日部活だろ?」


「…まさか待ってるの?」気味の悪い緊張が走る。彼の顔が見れない。なんでそんなこと、聞くの。わたしがここで肯定したらどうなるんだろう。征十郎くんに迷惑がかかる?一緒に帰ってることは隠してはいない。バスケ部の人はきっと知ってる。トイレで話してた女の子たちも知ってた。わたしが不審者に追いかけられたからって、確かに昔ほんとにあったことだけど、その前からずっと一緒に帰ってたから、正しくはない。もちろんそれは、誰にも話してないけど。


「……待って、ない」
「だよな。いくらなんでもそんなわけないよな」
「……」


顔を上げる。ここで嘘をつくことに何かメリットがあるんだろうか。征十郎くんを待ってる。部活の日だって待つ。征十郎くんが待ってって言って、わたしと一緒に帰ってくれるならいくらでも待つのだ。
この人はどこか変だ。わたしのことなんてちっとも考えてない。なのになんでこんなことを言うんだろう。


さん、一緒に帰ろーよ」


その台詞に既視感を覚える。言われた覚えがあった。けれど記憶を巡らせても思い浮かぶのは征十郎くんだけで、優しく笑いかけてくれる彼と目の前の高倉くんはちっとも被りやしないのだ。顎を引いて苦笑いを浮かべる。何を思ったのか高倉くんの口角が上がった。その瞬間、既視感の正体に気付いた。


「うん…」


頷いたまま、口を固く閉じる。ぎゅうと目を瞑る。

ああやっぱり、征十郎くんじゃない。


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