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四階へ続く階段からクラスメイトの男の子が駆け下りてきていた。頭にインプット済みの名前から、彼、高倉くんの名前を引き出す。動揺を露わにした表情の彼を半ば放心しながら見つめる。まともに話した記憶はないけれど、素通りしないで案じてくれたのは素直にありがたかった。目の前で立ち止まり見下ろしてくる高倉くんの顔に、頭上の蛍光灯の光で影がかかる。


「どうしたの?大丈夫?」
「あ、だいじょうぶ……」
「でも立ってるのも大変そうじゃん。保健室行こう、手貸すよ」


そう言って差し出された手を取るか否か迷っていると、高倉くんはしびれを切らしたのかわたしの腕を掴んだ。驚いて身体が強張る。「大丈夫?歩ける?」言葉は優しい、けれど、引っ張られたため無理矢理踏み出すことになった両足が痛い。もう少しゆっくり歩いてほしい、要望は口にする前に彼の足が下へと続く階段へ差し掛かったため噤まれた。


?」


足を止め真っ先に振り返る。見上げると、階段の手すり越しに彼と目が合った。その瞬間、わたしの心はひどく安堵するのだった。


「征十郎くん…」


ポロッとこぼれた名前にようやく息をつけた気持ちになる。後ろで高倉くんも振り返った気がしたけれど、わたしは少しも気に留めず、階段を駆け下りる征十郎くんがそばに来てくれるのを今か今かと待ち構えていた。


「どうしたんだ?」


征十郎くんはわたしの目をじっと見つめたあと、掴まれたままの腕を一瞥し、「高倉も」と高倉くんへ顔を向けた。つられるようにしてようやく、彼の顔を見上げる。えっと、と顎を引いた高倉くんはわたしへ視線をやる。身長は征十郎くんと同じくらいだ。それなのに見下ろされてるように感じるのは気のせいだろうか。


さん階段から落ちてケガしたらしいから保健室に連れてってあげようと思って」
「! …本当か?」


目を瞠った征十郎くんがわたしへと視線を戻す。恥ずかしくて、足を、と小さくなりながら答えると、彼は少しだけ首をもたげわたしのそれへと目を落とした。左膝の甲は依然ヒリヒリと痛い。血が流れるほどじゃあないけれど、一目見てわかるくらいには滲んでるだろう。少なくとも征十郎くんの眉が潜められるくらいには、「階段から落ちた」という説得力があった。まるで自分まで痛みを感じているかのように顔を歪める征十郎くんに、こんなことで心配かけることが申し訳なくて眉を下げて彼を見上げていた。とはいっても、征十郎くんが姿勢を元に戻し高倉くんに向き直ったときには、すでに共感の感情は見えなくなっていたのだけれど。


「……俺が連れて行こう。元々帰りの待ち合わせをしていたんだ」
「あ、そうなの?じゃあ任せるわ」
「ああ」
「ていうか赤司とさんって一緒に帰ってんだ。知らなかったー」
「何か問題でも?」
「いや、べつに。仲良くないのかと思ってたけど意外といいんだなーと思って」
「そうか。早く保健室に連れて行きたいから何もなければ行かせてもらうが」
「ああごめん。さん大変だね、お大事に」


高倉くんが笑顔でわたしにそう言ったので、慌ててお礼を言おうと口を開く。「あ、ありが…」「、歩けるかい?」けれど征十郎くんがわたしの肩に掛かっていたスクールバッグへ手を伸ばし持ち手を掴んだので、彼に甘えてお願いしようと腕を抜いてる間に高倉くんも階段を上って行ってしまって最後まで述べることはできなかった。
わたしはこの数分間、不思議な体験をしたみたいにふわふわしていて、何だかうまく飲み込めなかった。階段から落ちたことも、両足を怪我したことも、高倉くんに声をかけられたことも、征十郎くんが来てくれて高倉くんと話していたことも、急に変な世界に放り込まれたみたいに、変な感じがした。階段の人通りはほとんどなく、流れるようにみんな降りて行ってしまうから一部始終すべて見ていた人はいないだろう。わたしのバッグを自分の肩にかけ、腕に優しく手を添える征十郎くんは、やっぱりさっきと同じく心配そうな顔をしていた。征十郎くんだけがはっきりと現実だった。彼に頷いて、付き添いのもと左足を一歩踏み出す。それから引きずるように右足を前に動かす。


「待て。右足も痛むのか?」
「…うん、あはは…」
「無理しないで、ゆっくりでいいから」


うん、もう一度深く頷く。肩をすくめて、そのまま泣いてしまいそうになる。きっと今泣いたら、痛いから泣いたんだって心配されてしまうよ。小学生じゃないんだから、そんな理由で泣くだなんて思われたくなかった。じゃあ本当の理由を言えばいいのに、それは自意識過剰みたいで恥ずかしくて言えないから、やっぱりわたしはじわじわと心に染み渡る感情を精一杯堪えるしかなかった。ああ、本当に。

征十郎くんはわたしのことすごく大切にしてくれるんだ。

身体中を支配するとめどない幸福に、俯くわたしの顔は真っ赤に染まっていた。


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