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二週間も間が空くと学校に行く習慣が薄れてしまっているので、忘れ物がないか入念に確認しなきゃいけなかった。前日である日曜日の夜に、絨毯の敷かれた床で正座しながらスクールバッグを開く。頭の中で翌朝起きてからのシミュレーションをしようと上を向くと円形の照明が目に入った。昼白色のそれを眺めながら、しばし思案する。……あ、お財布。お昼に学食で食券を買うシーンになって、顔を正面に戻した。お金、入ってたかな。なかったら大変だ。前みたいに友達に借りることになってしまう。四月のスポーツテスト以降よく行動するようになった友達とはお昼も毎日一緒に食べていた。月曜の四限は日本史だから、教室からそのまま行けばいい。折りたたみの薄ピンクのお財布を開け、千円札が三枚入っていることを確認し、またバッグへ戻す。
ふいに、携帯の振動音が耳に入った。振り返りベッドに置きっ放しだったそれへ手を伸ばし、画面を見てみる。征十郎くんからのメッセージだった。


[明日は部活が休みだから部室の前で待っていてくれ]


文面を何度も目で追う。三回目で息を止めてたことに気付いて、吐き出した。征十郎くんからメッセージをもらうときはいつもどきどきする。そう滅多なことではないのに、いつまで経っても慣れないのだ。だってもらえるの、当然のことじゃないものね。それにどうでもいいことじゃないもの。わかったよ、と打つと、予測変換に「いつもありがとう」のフレーズが出てきてつい苦笑いしてしまった。こんな、ありきたりな言葉でしか感謝を伝えられてない事実に情けなく思う。それでもやっぱり他の言葉が思いつかなくて、逡巡した結果、了解の言葉だけで送信してしまった。
携帯を両手に持ったまま、ベッドに寄りかかって頭を埋める。わたしはきっと明日も明後日も征十郎くんにありがとうと言うのだろう。征十郎くんに言いたいこと、他にもあるけど、でも一番は感謝の気持ちだから、ないがしろにはできない。征十郎くんに優しくしてもらえることがどんなに支えになってることか。笑ってほしい。わたしに、笑いかけてほしい。

目を閉じて彼を思い浮かべる。ふわりと柔らかいものを見るような眼差しで微笑む。あなたが世界で一番すき。





冬休み明けの教室はどこかぎこちなくて、クラスメイトは誰も彼もよそよそしかった。同じ部活の人同士に限ってそんなことはなかったみたいだけれど、あいさつを交わした友達はおはようのあと、みんなはにかんでいた。もちろん例に漏れずわたしもよそよそしくなってしまったので、肩をすくめて恥ずかしいのを誤魔化すのだった。


「あっ、お金忘れた!」


隣に座る友達の声に昨日の自分を思い出し反射的に振り向く。目が合ったその子に貸すよと二つ返事で言うと、ありがとう、と心底ホッとしたような表情でお礼を返された。それにわたしも口角を上げて笑顔を見せる。すぐに前の入り口から先生が来たので、居住まいを正して正面に向き直った。
二週間ぶりのホームルームでは先生が残り三ヶ月の行事予定や定期考査のことを話していた。けれど耳を通り抜けていくばかりで何も頭に入らない。目線を少し下げると毎日使っていた自分の机が目に入る。動かない木目で視界をいっぱいにすれば思い出すのは容易かった。昨日の彼とのやりとりで思ったことだ。やっぱりありがとうって打てばよかった。感謝の言葉は言われたら嬉しい。言うのも言われるのも、謝られるよりずっといい。少なくとも征十郎くんに対してはずっとそうだ。


「…ごめん。俺のせいで」


唐突に、脳内で再生された言葉にスッと背筋が冷える。全身が粟立ったように動けない。まるであのときと同じように耳元で囁かれた錯覚に陥り息が詰まる。忘れられない。あのとき征十郎くんは、どんな顔をして、どんな気持ちで言ったのか。察した先の答えがとても恐ろしくて、深く考えることができなかった。だってわたしの何もかも、破滅する音が、聞こえる気がして。

唐突に周囲が騒めきだす。顔を上げてようやくホームルームが終わったことに気が付いた。一限何だっけ、と壁に貼られた時間割表へ目を向ける。月曜は移動教室が一回もないんだと思い出した。





わたしが席を立ったのは放課後のホームルームが終わってしばらくしてからだった。征十郎くんとの待ち合わせはもちろん一日中覚えていたけれど、少し遅れるとの連絡を昼休みにもらっていたので合わせたのだ。まさか待たせるつもりはないので教室を出てから小走りで廊下を駆けていく。スクールバッグは最低限の荷物しか入ってないから床を踏むたびわたしの背中にぶつかった。
征十郎くんと一緒に帰るときは、ほとんどいつも彼の指示通りの場所で待つ。迎えに来てもらうことは滅多にない。だから今日もきっと部室に用があるんだろう。そうじゃないと、変に見えてしまうから。まるで征十郎くんがわたしに合わせてくれてるみたいに、周りから見えてしまう。
強豪と名指されるバスケ部の主将で、生徒会長、周囲からの人望も厚い、誰に話しても恥ずかしくないそんな征十郎くんが、幼なじみのこんな奴に目をかけているなんて、面白くない。わかってる。中学でも高校でも同じだ。だから、周りの目がわたしに行かないように、征十郎くんが守ってくれてるのだ。学校内での希薄な関係が事実と思われるように、取るに足らない存在であらせてくれるのだ。

階段を一段一段下りながら、口を開けて呼吸する。改めて彼への負担を考えると申し訳なくて、上手く息ができなかった。征十郎くんの面倒を増やしてまで一緒にいたいってわがままを聞いてもらってる。ごめんね。大変な思いさせてるってわかってても、わたしが諦めたらすぐ手が届かない距離になっちゃうから、そばを離れたくない。

ドンッと背中に衝撃を受けた。

突然のことに右足の着地を失敗して階段を踏み外す。ズルッと滑るように体勢を崩し、大きな音を立てて四段分落ちた。勢いが止まらず踊り場に尻もちをついてしまった。声を上げることもできなかった。


「……うっ…」


おそるおそる、右膝をついて一番楽な姿勢を取る。お尻と両足が痛くてすぐに立ち上がれなかった。右足のふくらはぎがじんじんと痛い、のは、踏み外して角にぶつけたせいだ。左膝も、皮が剥けてうっすら血が滲んでいた。心臓がドクドクと気味悪く脈打つ。あがる息を抑えながら階段の上の方を見上げたけれど、知らない人が数人降りてきているだけだった。一瞬目が合ってすぐ逸らす。……誰かとぶつかったと思ったけど、誰かわからない。それよりいつまでもしゃがんでるのがみっともなく思えて、立ち上がろうと手と右膝に力を入れて腰を上げた。


さん?」


壁に寄りかかりながらなんとか立ち上がったタイミングで、上の階から声が聞こえた。


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