24


征十郎くんが時折不安そうな顔をすることにわたしは気付いていた。

これは夢だとわかる夢は珍しい。ほとんど毎晩見るその世界で、わたしは自分がどんな立場でも、ましてや存在せず外から映像を見ているだけのときでさえも違和感なく享受していた。けれど今、目の前に征十郎くんがいるこの状況が、夢であると確信できていた。





だってこれは二年前の夏の記憶だ。家にいたわたしは呼び鈴の音で無意識に駆け出し、サンダルをつっかけてドアを開けた。その向こうに誰がいるのかわかっていた。予想通り、インターホンの前には制服に身を包んだ征十郎くんが、一人で立っていた。赤とオレンジの双眸が煌々と輝いている。わたしは彼を目にした瞬間、何も言えなかった。

外は真っ暗だった。夜の暗さだ。雲はほどほどの量しか浮かんでいなかったけれど、それまで降っていた雨であちこちに水溜まりができていた。朝、今日は雨が降るから先に帰ってなと征十郎くんに言われたから、言われた通りまっすぐ帰った。家に帰ってから雨が降り出して、すぐ止むだろうというテレビの天気予報を聞いていた。お母さんたちはどこに行ったのだろう、家には誰もいなかった。わたしは制服も脱がずソファで体育座りをしている。このあと何が起こるのかわかっていながら、やっぱり夢の中は思ったように動けない。





二度目の呼びかけで足を動かせた。濡れたタイルの階段をサンダルで駆け降りる。滑ったりしない。きっと実際の二年前みたいに滑ってたら、衝撃で夢から醒めていただろう、とあとから思った。
せいじゅうろうくん。きっとわたしは発声しただろう。ぼんやりと脳内に届くのは声ではなかった。それでも、目の前に立っている征十郎くんは目を細めるから、きっと届いていると思う。どうしたの征十郎くん。続けて問うた言葉に彼は目を伏せた。


「…うん」


目を伏せたまま浮かべた笑みはとても静かで、白銀の世界を思わせた。月夜に照らされてきらきらと光る一面の雪はどこまでも、どこまでも、そう、わたしの見えないところへと続いていく。どこにもいかないで。これは実際には言わなかった言葉だった。言わなくてよかったと思っている。


「これからもよろしく」


ほらだって、征十郎くんが言ってくれたから。どこにも行かないって。これからもよろしくってそういう意味だ。彼は静かな笑みに不安の色を忍ばせていた。それに気付いた。どうしたんだろうと思った。心配にならないわけがない。わたしがどうにかしてあげられたらどんなにいいか。


もちろんだよ。


彼が安心できるよう努めて明るく返す。二年前の夏もそうやって返した。夢の中でわたしは何度も、同じ返事をしていた。けれど彼の表情が和らぐことは一度もなかった。

わたしの夢だというのに。




不安を煽るような周囲のざわめきが嫌だった。二階席の最前列を陣取るわたしは、太ももの上で両手を握り込んだ。通路席ではあったけれど、右隣の人は知らない人だ。誰かを誘うという選択肢すらなかった。久しぶりに東京に帰ってきて、連絡を取れる友だちは数えるほどしかいなくて、その中でバスケに興味を持っている子はゼロだった。

ウィンターカップ決勝戦、第四クオーター、洛山高校初のタイムアウト。
観客の不穏な会話のほとんどが、洛山の主将である征十郎くんの突然の不調についてだった。
ここまで完璧なプレイを貫いてきた彼が最終局面になって突如崩れだした。きっかけは黒子くんのいる相手校の息の合ったコンビネーションプレイ。彼らが征十郎くんから得点をもぎ取ったところから様子が変だった。
ここから洛山のベンチはよく見えるけれど、征十郎くんの表情は俯いていてよく見えない。会場の熱気とは真逆に指先が冷たくなっていくのを感じていた。
征十郎くんの不調の原因は、何となくわかってるつもりだ。これでも人生のほとんど、彼に恋をしているのだ。彼の機微にはそれなりに敏感で当然だ。征十郎くんが部活で何を思って戦っているのか、まったく知らないわけじゃない。黛先輩が、征十郎くんの前に立ちはだかるのが見えた。

鼻がツンと痛い。じわりと視界が滲む。泣いていた。

……ああ、今日、あの夢を見たのは、偶然じゃなかったのかもしれない。

あの夏の日、征十郎くんが変わったことに気付いていた。気付いたうえで、わたしはあの返事をしたのだ。


「俺は赤司征十郎に決まっているだろう」


声が聞こえた気がした。





冬の夜は早い。大会の閉会式後はもう真っ暗で、一人で実家に帰ったあとはリビングのソファに寝転がっていた。夕飯は済んだ。早くお風呂入りなさいというお母さんの言葉に生返事をしながら、ニュース番組で天気予報が流れているのをぼんやり見ていた。
ふと、耳元で携帯が振動する。バイブレーションにしてあったそれを手に取り通知画面の表示を見ると、征十郎くんからのメッセージだった。


[今から外に出られる?]


開いて直接メッセージ画面を確認する前に、起き上がってリビングを飛び出していた。適当に履ける靴に足を突っ込み、その勢いのままドアを開く。この向こうにいると確信していた。


「征十郎くん!」


思った通り、彼はインターホンの前に一人で立っていた。ジャージ姿のまま、エナメルバッグを肩にかけている。わたしと目が合うとゆっくりと笑みを浮かべた。冬の夜は長い。夜空は綺麗だ。月がよく見えた。わたしは月に照らされた彼の笑みに、白銀の世界を一瞬思い浮かべ、すぐに消し去った。今の征十郎くんは、まるで月からやって来た使者のようだった。





心地よい声に胸が高鳴る。引き寄せられるように足が動いていた。「っわ!」中途半端に履いた靴が脱げて転びそうになる、のを、「おっと」征十郎くんが助けれくれた。腕を掴まれた感触に体温が昇るのを感じる。ありがとうとお礼を言ってすぐ離れてしまう。


にどうしても伝えておきたいことがあったんだ」


目の前に立ち直し、ゆっくりと見上げる。やっぱり征十郎くんは、月の住人なんじゃないかな。陰になって暗いはずなのに、表情が柔らかいの、目が優しいの、よくわかるんだ。赤の眼差しに包まれたくて一瞬息を止める。


「これからもよろしく」


そう、まっすぐ目を見て伝えた征十郎くんは、二年前の夏と、わたしの夢の中に残る彼とはまったく別の顔だった。息を吸う。生きていると感じる。


「もちろんだよ」


いよいよ笑みを深めた征十郎くんにわたしもつられて笑顔になった。ああ、あのときだってあなた、笑ってよかったのに。誰も責めないのに。嫌な気持ちにならないのに。


「征十郎くん、ありがとう」
「…? 俺何かしたかな」
「ずっとしてもらってるよ。ずっと、ずっとわたしのこと大事にしてくれる征十郎くんだったから、幸せだったよ」


「ありがとおねえ」最後の方は震えた声で、しまいには泣いてしまった。悲しくないのになんでかなあ。ああでも、悲しいのかもしれない。わたしは誰に言われなくとも、別れを感じてしまった。ずっと一緒にいてくれた彼がいないと、漠然と感じ取っていた。わたしにとって二人は同じだった。征十郎くんも態度を変えることなく接してくれてたと思う。変わっても変わらなくてもわたしの大好きな征十郎くんで間違いなかった。だから、余計に悲しいのかもしれない。


「ああ…こちらこそ」


心の深いところから吐き出された声だった。征十郎くんはわたしの腰に腕を回して優しく抱き締めてくれた。わたしははらはらと涙を流しながら、彼のジャージの裾を握った。


top